第2053回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2052話 朝鮮独立党の金 玉均 氏 と、近畿自由党の事。


                         2018年1月27日土曜日の投稿です。



  
  
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  【 前話からの続き。】


  約10ヶ月程前に発生した、明治17年の12月に発生した秩父事件では、秩父

困民党【ちちぶこんみんとう】が、「 自由自治元年。」を叫んで、群馬県、長野県

まで反乱が拡大、 日本全国から 表向き自由民権を叫び、政府に不満を持っ

ていた旧 武士や、いろんな人達が加わって、現地の警察では対処が出来なく

なり、陸軍が出陣して、西南戦争に次ぐ規模の暴動鎮圧となっていったのです。


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 この秩父困民党の秩父事件と言うのは、私利私欲の争乱ではなく、一部の身分

の者達が、貧困者に少しだけお金を貸し付け、返済が滞ると、容赦なく子供や

年頃の女子を連れ去り、 人買い業者に売り飛ばすなどの人権侵害行為が当時

繰り返されていて、 これらの業者から、借金の証文を取り上げ、政府に こう言う

行為を是正するよう求める デモ行進を行って 東京に行こうという、西南戦争とは

一風違った、騒乱であったと言われています。


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 その争乱を支援するとして、関西から秩父に出向いていた 近畿自由党の人達

は関西に逃げ帰ってきたのですが、 それを追求する捕縛の落ち武者狩りが、

内務省の 当時の内務卿 山縣 有朋公 を中心とした 陸軍の憲兵隊、警察

によって関西一円で行われていったと言われています。



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 年が変わって 明治18年の1885年は、内務省によって、関西の近畿自由党

弾圧が行われ、 実際は存在していた 近畿自由党は、 表向き解散したのですが

実際は、そのまま存続し、 反政府のレジスタンス活動に入って行ったと言われて

います。


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                   【 代言人 大井 憲太郎 氏 】


逮捕された近畿自由党の党員の代言活動を行っていたのが、近畿自由党の首魁

代言人 大井 憲太郎氏であったのです。

代言人【だいげんにん  弁護士のような仕事】 というのは、現在の弁護士に近い

ような行為を行う職業であったのです。

朝鮮独立党の 金 玉均氏は、大阪の彼の事務所を訪問し、影山 英子先生に

面会すると供に、 大井 憲太郎氏にも面会し、 日本政府に不満を持つ人達に

油を注いで、火をつけ、風を送り、 自らの野望に利用しようとしていったのです。


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当時、近畿自由党は弾圧され、 自由民権の後援会や、 労働運動の後援会など

も開くとすぐ警察によって 鎮圧され、逮捕者が続出し、 活動が表だって出来ない

状態であったそうです。



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  そこで、 朝鮮独立党の金 玉均 氏が考えたのが、 近畿自由党の壮士と

土佐自由党の壮士と、九州の玄洋社の壮士、 そして西南戦争や、各地の決起

でお尋ね者になった士族や、日本政府に不満を持つ人達を自分が中心となって

束ねて、兵力としてまとめ、 その兵力で、三菱などに支援を求め、再度朝鮮に

兵力を進め、清国人を追い払い、 朝鮮半島に 自由民権の国を打ち立て、

 その後、 国力を整えて、 日本に攻め込み、明治政府を武力によって転覆し

日本を、自由民権の国にしようという構想を、 近畿自由党の幹部に説いて周り


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  自由民権派民兵組織を造っていこうと、 大井 憲太郎 氏に接近していった

と言われています。


    【 明日に続く。】