第2055回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2054話 朝鮮独立党 金 玉均氏と、近畿自由党 大井 憲太郎氏のこと。


                        2018年1月29日月曜日の投稿です。




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                   【  当時の 大阪の風景 】



   【 前話からの続きより。】


    「  あんた、だれとよ。」 と、大分のなまり言葉で問いかけてきた、

  近畿自由党の首魁 大井 憲太郎 こと、本名 高並 憲太郎は、大分県

  宇佐市の出身で、 大阪の医師 兼 薬剤師の大井 ト新 なる人物の養子

  となり、 大阪に出て来て、 大井 憲太郎と、当時名乗っていたそうです。


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                  【 朝鮮独立党 金 玉均 氏 】


    「  それがし 岩田 秋作 こと、金 玉均 と申し、 数ヶ月前まで

   大朝鮮国 全権公使を勤めていた官吏でございます。

   慶應義塾 福沢 諭吉 門下、 興亜と自由民権のお話しをお伺いしに、

   岡山県の 山陽自由党の 石黒 函一郎【 かんいちろう】 先生に、影山

   英子先生のお話をお伺いし、訪ねて参りました。」 「 お忙しいところおじ

   ゃましております。」 と、 丁重に挨拶したそうです。

   代言人 大井 憲太郎氏は、 イライラしたような顔つきで、 「こうーー毎日

   我々の自由党の関係者が逮捕されると、忙しくてかなわんとよ。」と、こんな

   お話しをして、近畿自由党が ここ数ヶ月、 警察や、内務省や、陸軍の憲兵

   などに連行されたお話しになって行ったそうです。



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  自由民権のお話しをしようとすると、「 演説中止、 やめぃ、やめぃ。」と警察

  や、私服の内務省の関係者に連行されて、 その都度、 抗議し、釈放を要求

  する日々が続いていたそうです。

  そんな 大井 憲太郎氏と、影山 英子先生に、金 玉均氏は、独自の興亜論

  と自由民権の考え、 民主憲法制定、議会制民主主義をこの日本で行うには、

  言論で訴えたのでは、海に向かって石を投げるような事で、何も効果はないと

  語り、 「 大義の為には、小義を捨て。」と語り、 武力による 維新回天を

  唱えたと言われています。


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    そして 彼は、 朝鮮の絵図と、日本国の絵図を広げて、二人に語り出した

 のは、 日本では西洋式の軍隊がいて、 なかなか 武力による政権奪取は

 難しいと語り、 刀、槍、弓が主体の朝鮮でなら、 維新回天が容易で、 まず

 日本から自由党の壮士を結集し、 朝鮮を武力で奪取して、 まず 自由民権の

 政権を樹立し、 体制を整えて、 日本の明治政府を武力で討伐して、 日本と、

 朝鮮を1つの自由民権の国家にするお話しが語られたと言われています。



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  当時42才であった、 大井 憲太郎 氏は、秩父事件で、政府の東京鎮台の

  陸軍部隊に、多くの人が一斉射撃を受けて落命し、 怒りを感じていたので

  朝鮮独立党の 金 玉均 氏の 武力で、自由民権の 維新回天を行うお話

  しを真剣に聞いていたと言われています。

  こうして、 近畿自由党の周辺には、 9ヶ月前の秩父事件の武力鎮圧や、

  その後の、警察、内務省、陸軍の憲兵隊の弾圧から、政府に怨みをもつ人が

  多く、 「目には目を、歯には歯を。」の言葉通り、 暴力で政府に報復しようと

  いう思いが吹いて出ていったようです。


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    こうして、近畿自由党の主要メンバーに、 土佐自由党、 九州の玄洋社

 など、鹿児島の西南戦争の落ち武者、各地の反政府勢力を集めて、朝鮮に

 渡って、 まずは、武力の整っていない朝鮮で、決起を行い、 自由党政権を

 樹立し、 日本に攻め入ろうという、 そういうお話しが広がって行ったそうです。

 このような出来事があって、 関西ではだんだん、暴力によって、物事を進めて

 いこうという人が集まっていったのです。


  【 明日に続く。】