第2057回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2056話 朝鮮独立党 朴 泳孝氏と金 玉均氏のこと。

                         2018年1月31日水曜日の投稿です。



  【前話からの続きより。】



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   朝鮮独立党の金 玉均 氏は、官憲の弾圧の厳しい 大阪での自由民権の

公の演説は控え、 そのまま 神戸にたち帰り、 朴 泳孝氏らが寝泊まりする

借家に戻って、 九州の玄洋社のお話しや、山陽自由党のお話しや、近畿自由党

のお話しなどを報告したそうです。



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                  【 朝鮮独立党 朴 泳孝 氏 】


  山崎 永春こと、朴 泳孝 氏は、当時24才で、 金 玉均 氏より10才年下

の人物でしたが、 金 玉均 氏が10才年下の彼に頭を下げていたかというと、

彼は、母国、 大朝鮮国の王族の末端の姫君を妻に迎えていた、つまり、日本で

言う皇族の末端の人物で、身分が彼のほうが年下でも上であったそうです。

そして、それ故に、 彼の方が、封建制度の大朝鮮国では官職が上の上級の

位であったと言われています。

 問題の王族の姫君は当時、死去し、彼は独り身で、前年の12月の甲申事変

で足に清国軍の銃弾を受け、医療水準の低かった当時歩行が困難で、水墨画

や、行物と呼ばれる漢文の墨蹟などを書いて 貧しい生活をしていたそうです。


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   そんな 彼に、土産話を報告し、 玄洋社の資金から、20円、 現在の貨幣

価値で、およそ45万円程度のお金を、自由民権と興亜のお話しの講演料で得た

お金と言って、朴 泳孝氏に手渡したそうです。

そして、神戸港から、 土佐国 こと 高知県に船で向かったと言われています。



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   1885年 明治18年の秋頃、 朝鮮独立党の金 玉均氏の高知県への

旅の目的は、土佐自由党の人達に面会を求め、 朝鮮独立党への協力関係を

構築することと、 福岡市の玄洋社の頭山 満 先生の依頼があった、囲碁

方円社とのもめ事について、土佐自由党の首魁 後藤 象二郎公に面会を

求める事にあったようです。


   【 明日に続く。】