第2074回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2073話 福沢 諭吉先生からの 朝鮮独立党への手紙のこと。
2018年2月17日土曜日の投稿です。
【 前話からの続きより。】
福沢 諭吉 先生がしたためた手紙は、 1885年 明治18年の12月初旬
に 兵庫県の神戸市内に当時あった、 朴 泳孝氏らの住む借家に届けられたと
されていて、 その手紙の内容は、「 いずれ、慶応一門総力を挙げて、事が落ち
着いたら、みんなが国に帰国できるよう尽力するので、 今は時が悪いので、
しばらくの間は 軽挙妄動を慎み、隠忍自重するように。」と言う内容の手紙で
あったとされています。
そして、「金 玉均氏の最近の行動、言動が、政府で問題視されており、政府を
批判したり、目立つ行動は控えるように、 何事も、自らの身の為なり。」 と、
書いてあったそうです。
【 朝鮮独立党の首魁 朴 泳孝 氏 】
当時、 昨年の12月の甲申事変で銃弾を足に受け、歩行が困難で、 寝間で
水墨画や、書を描いて、 それを売って貧しい暮らしをしていた 朴 泳孝氏らは
その手紙を 金 玉均氏に見せて、 「 先生のおかげで 日本に匿ってもらって
いるので、その恩を仇で返してはならぬ。」 と、 金 玉均 氏に自制を求めた
そうですが、 その当時、 金 玉均 氏は、福岡市の玄洋社などから 多額の
金銭を得るようになっていたからか、 それに反対し、 「 そんなことを言っていた
らいつになったら 国に帰って、自由民権の国を造れるのか。」 と唱えて、言い争
いになっていったと言われています。
【 朝鮮独立党 金 玉均 氏 】
朴 泳孝 氏は、当時24才、 金 玉均氏は、10才年上の34才で、朴泳孝
氏が末端の王族の身分で、朝鮮での官位が上であったので、 今まで顔を
立てて したがっていたのですが、 水墨画や書を描いていては、いつまで経って
も何も出来ずと考え、 日々、 身分を否定し、人はみな平等であると、演説の
説法で唱えていたので、 ついつい 朴 泳孝氏に対して言い過ぎたようです。
その背景には、わずか数ヶ月で日本人から、 「金 玉均先生。」と呼ばれ、
手元に お金が転がり込み、 お金のせいで、 態度が大きくなっていった
とも言われています。
朝鮮に帰りたいのは、みな一緒で、 1番イライラしていたのは、年若い、朴
泳孝 氏だったのかもしれません。
彼も 足にケガをしてなかったら、 1日も早い帰国を考えて、 一緒に行動して
いたかもしれません。
こうして、明治18年 朝鮮独立党の首魁 朴 泳孝 氏 こと、山崎 永春氏と
金 玉均 氏こと、岩田 秋作氏は、 たもとを分かち、別行動をとるようになって
いったとされています。
【 明日に続く。】