第2081回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2080話 山陽英和女学校と大阪事件のこと。

                          2018年2月24日土曜日の投稿です。





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   【 前話の続きより。】


   現在の岡山県 岡山市 つまり市が出来たのが、1887年 明治22年と

されていて、 大阪事件が発生した 明治18年というと、岡山市が出来る4年前

と言う事になります。

1878年 明治11年頃、 アメリカ人の医師 ジョン カッティング ペリー氏が

備前国 岡山に来日して、 病院 兼 教会を始められたのが、 岡山キリスト

教会の始まりと言われています。


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               【 明治初頭の 備前 岡山城 】



その1年後、 1879年 明治12年に来日したアメリカ人の医師 オティス ケリー

氏も一緒に 岡山キリスト教会を支え、布教活動を行いながら 医療行為を行って

いたと伝えられています。


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               【 金森 通倫 牧師  熊本県 玉名市出身 】


  1880年 明治13年に 熊本県玉名市出身の 金森 通倫 さんが 岡山

  を訪れ、 牧師となり、 岡山基督教会 【 おかやま きりすと きょうかい】の

  初代 日本人牧師となったと伝えられています。

  それから5年後の明治18年頃の 信者の数が当時33名であったそうです。

  当時の備前岡山は、江戸時代の封建制が残り、男尊女卑が染みついていて、

  女子【おなご】には学問は不要、 子守りと家事が出来ればよいという考えが

  当時染みついていたそうで、 これを岡山から自由民権の精神を基本として

  是正し、その第一歩として、英語を勉強する女学校を設立して、女子の学問

  の向上を図っていこうという計画が提案されていったそうです。


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  その母体となったのが、 岡山基督教会であり、 オティス ケリー氏、金森

 通倫氏、 そして、以前紹介した 代言人 石黒 函一郎 先生であったのです。

 この女学校が 後の、 山陽英和女学校 明治19年 岡山 中山下に設立、

 現在の 山陽女子中学校 高等学校の前身となって行きます。

 代言人 石黒 函一郎先生は、ちょうど、この学校の設立のため、 用地の確保、

 校舎の建設と、忙しい時期であったそうですか、 新聞に 近畿自由党関係者 

 大量捕縛 なる記事が紹介され、その名前の中に、 山陽自由党にいた 景山

 英子の名前を見つけた石黒 函一郎先生は、頼まれもしないのに、「党友を

 助けなければならない。」と言って、大阪に出向かれたそうです。



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  【 初代 山陽英和学校 校長  代言人 石黒 函一郎【かんいちろう】 先生】



   現在であれば、新幹線で 岡山市から新大阪まで約1時間程度の時間で移動

 出来ますが、 交通機関の発達していない当時、 大変な旅費と日数がかかった

 と思われます。

 こうして、明治18年12月、 当時の巨大な官憲の組織、 大阪府警察本署に

 単身 乗り込んで、 「景山 英子 を釈放して自由にするように。」と、代言活動

 に入って行ったと言われています。

 牢に入れられていた、 景山 英子 先生を見て、「 英子ちゃん 大丈夫か、

 しっかり せにゃーいけんど。」と、声をかけると、 景山 英子先生は、 涙を

 こぼしながら、「 石黒先生 うち なんも 悪い事してないのにーー。うううう

 うぅっ。」と語り、 言葉にならない 無言の時が過ぎていったといわれています。


 【明日に続く。】