第2105回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2104話 長崎事件 清帝国の賠償請求のこと。

                     2018年3月19日月曜日の投稿です。





イメージ 1



                     【 東京府 清帝国 公使館 】


   【 前話からの続きより。】


    1886年 明治19年 8月後半頃、東京の現在の 国会議事堂の西側に、

    当時の番地で 東京都 永田町2丁目7番地  現在の 衆議院第1議員

    会館あたりに当時、 清国帝国 公使館があったのです。

     ここの 徐 承祖 という公使がいて、 外務省が長崎事件の出来事に

     ついて厳重に抗議するとともにその日本側の損害についての損害賠償

     請求を行ったと言われています。


イメージ 2



    これらの事件の申入れは、北京の西太后などにも おおよその出来事が

   報告されたのですが、 その命令というのは、 北洋大臣に対して、「決して

   妥協せず、清帝国も損害賠償を 日本政府に求めなさい。」と言う命令で

   あったそうです。


イメージ 3


                   【 北洋大臣 李鴻章 りこうしょう 】
  

こうして、またまた、前年の明治18年の6月同様、 天津に本拠を置く、李鴻章

大日本国の外務省との、外交上の綱引きが始まっていったのです。

その方法とは何であったのかというと、 言い伝えでは、意図的に 死者の数を

倍以上に設定して、 法外な損害賠償請求を 日本の北京駐在の 清国特命

全権公使 塩田 三郎 公使に対して申入れをしてきたそうです。

その金額は、 日本が提示した 損害賠償金額の3倍以上の金額であったそうで、

「その損害賠償金を支払わなければ、清帝国は、大日本国に対して、宣戦布告を

行い、戦争を始める。」と、 高圧的態度に出て来たと言われています。



イメージ 4
  



   こうして 日本政府は 損害賠償金を請求したら、相手側から、その3倍程度

 の損害賠償金を請求されていったのです。

 当時の国際港では、 警官は 殺傷する武器の携帯を禁止されていて、長崎港

 では、警棒のみの携帯が許されていたところ、 サーベルで 清国兵を殺害に

 及んだのは、国際法に違反するとの清国の申入れであったそうです。


  【 明日に続く。】