第2106回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】
2018年3月20日火曜日の投稿です。
【 明治時代 北京にあった 日本公使館 】
【 前話の続きより。】
1886年 明治19年8月後半に、 死者や負傷者の数を倍以上に水増しして
大日本国 清国北京公使館に対して、損害賠償請求を行ってきた 清国の
官吏 というのは、李鴻章【 リーホンチャン 】 と呼ばれる 北洋大臣でした。
日本で言えば、 大名の それも 老中に相当する、 西太后の顔色をうかが
い、煮ても焼いても食えない、 油断の出来ない人物であったのです。
を日本に割譲する話をして、 それに釣られた 内閣総理大臣 伊藤 博文公や、
やドイツに貸し出して、 金銭を受け取り、 三国干渉と呼ばれる絵を描いたのは
李鴻章でありました。
当時の清帝国は、 フランスと戦争を行い、敗戦し、台湾を占拠され、朝鮮
して、ドイツから武器などを購入して、国力を整えようとしていたのです。
そう言う時期に、長崎事件が発生したのですが、 日本の損害請求の3倍の
それ以上の金額をふっかけて、 ドイツ帝国などを利用して 北京の塩田 三郎
特命全権公使に対して、戦争をちらつかせながら 圧力をかけてきたのです。
【 若い頃の 函館時代の 塩田 三郎 公使 】
塩田 三郎 さんと言う人は、 幕臣で、フランス人の宣教師から、フランス
語を習って、 幕府の通訳をしていた人で、 明治18年 榎本 武揚 公使の
次の公使として、 北京に駐在し、 同地で 病没したと言われています。
活躍されたと言われています。
こうして、 東京府の外務省の 井上 馨 外務卿と、北京の塩田 三郎特命
全権公使と、李鴻章 北洋大臣 との間で、 清国側の 死者や、負傷者が
偽りの 作り話であるとの申立から交渉が始まって行ったと言われています。
【 明日に続く。】