第2108回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2107話 明治19年 長崎事件の大日本国の敗訴のこと。
2018年3月22日木曜日の投稿です。
【 明治時代の 長崎港 】
【前話からの続きより。】
1886年 明治19年 国際貿易港の指定地であった 長崎港で発生した、
ドイツ人などの 外国の弁護士も参加した会弁委員会の評決は、なんと日本側
が敗訴する評決であったそうです。
当時の国際法に基づいての司法判断は、 それぞれの損害を相手側がその
損害金を支払うとの評決で、 言い伝えによると、 清国帝国側は、15,500円
を、 大日本国に損害金として支払い、 大日本国側は、 52,500円を清国側
に損害を与えたとして、支払う事になっていったそうです。
日本経済史の範囲のお話しになりますが、当時の巡査の一月の月給が
平均 9円だったそうで、 現在の貨幣価値で、仮に20万円に設定すると
清帝国は、大日本国に、3億4千555万円程度を支払い、 大日本国は、
清帝国に、 11億6千666万円程度支払う 会弁委員会の評決であったそう
です。
結局 差し引きすると、大日本国側が、清帝国に3万7千円、 現在の貨幣
価値で8億2千222万円程度、支払う事になっていったそうです。
当時の太政官では、 大きな反対があったそうです。
当時の内務卿 山縣 有朋公は、「 なんで 支那人がよその国の港に来て
暴動起こして鎮圧されて、 わしらーが 銭はらわにゃーいけんのんなら。」と
多いに立腹し、 他の重要 卿達からも、「 それは おかしい、慴伏しかねる。」
との 反対が相次いだと言われています。
殺害し、他の警官19名、 民間人数十名に重軽傷を負わせ、 器物破損、無銭
飲食等の犯罪を犯した事は認められ、1万5千500円の支払いが決められ、
清国側は 4名が日本人巡査達に サーベルで斬り殺され、53名が重軽傷を
受けた この行為は、 国際法違反の過剰防衛に当たると 判断されていったの
です。
【 当時の 筆頭参議 伊藤 博文 公 】
この損害賠償金を支払う決定をしたのは、 伊藤 博文 公 とされていて、
「 この皇国【おくに】を守る為には 格好を付けてはおれん。」 と語ったそうで、
高度な政治判断が行われ、清国に損害賠償金を差し引いた金額が支払われる
事になっていき、 日本側は 泣き寝入りする事になっていったと言われてい
ます。
当時、新聞によって これらの事件の顛末が掲載され、 それを読んだ人達は
大日本国の弱腰外交を批判していったと言われています。
みなさんだったら、どうされますか、 国際批判にさらされても、突っぱねて
清国と戦争を始めるか、 当時の明治政府のように、被害者なのに金を
加害者に支払うのか、 多いに考えさせられる事件でありました。
当時の政府は、感情に流されず、大人の判断をしたと思いますが、長崎や
九州の人達は、それで納まらなかったのです。
【 明日に続く。】