第2109回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2108話 明治19年の長崎事件のその後のこと。
2018年3月23日金曜日の投稿です。
【 明治時代の長崎 】
【 前話の続きから。】
1886年 明治19年 8月13日から15日に発生した、 清国海軍将兵
による 暴動事件、 通称 長崎事件の結末は、 大日本国側の損害賠償
支払いという結末となり、その事実が世間に広がると、大きな不満が爆発
していったと言われています。
当時 現在の大浦警察署の前身の 梅香崎警察署の当直から、現地に、
小野木 源次郎署長の命令で出向いて、 警棒を持ったまま、 清国海軍の
軍人達に集団リンチにあって、死亡した巡査の葬儀には、多くの人が参列し
彼の死を惜しんだと言われています。
自らの命令で 巡査が たたき殺された その事実は、 署長の 小野木
源次郎 氏を ずっと 苦しめて行ったと言われていて、 戊辰戦争で、官軍と
なって、遠く九州の長崎に赴任していた彼には我慢できなかったようです。
「 どうして、 こんな 理不尽がまかりとおるのか。」と、そして彼は、同じ
会津出身の 県知事に掛け合いに行く事になったそうです。
【 明治時代の 長崎県の庁舎 】
落城の後、 東北を転々と転戦し、 函館の五稜郭で戦った経験のある 日下
義雄 知事も日本側が清国に損害賠償を支払わなければならなくなったとの
報告に、 納得のいかない1人であったそうです。
そんな 日本人にさらに追い打ちをかけたのは、清帝国は、各地で、大日本国
の国際法違反、サーベルでの切りつけ事件を大々的に宣伝し、清国兵800
れたと宣伝していったと言われています。
事件で、日本の警察官が サーベルを持てなくなった。」という説は、今も残って
いるのですが、これは、誤りであって、 それ以前から、国際貿易港では、警棒
を携帯して警らするというのが既に行われていたのです。
このような経緯で、 数年前から 1年に1度程度、日本人商民を 清国人が
殺害して、涼しい顔をして、日本政府を悪く宣伝する行為が続いて、 日本の国民
は清国人を嫌いになって行ったと言われています。
それまでは、 書にしても、 水墨画にしても、文房具にしても、何にしても
大陸の清国を尊敬し、 品物を珍重し、高値で取引する風潮が続いていたのです
が冷めていったというか、 評判が悪くなっていったのです。
そして、ちょうど 長崎事件が発生した頃、 朝鮮半島で またまた 日本人が
眉をひそめる 清国人の横暴によって発生した事件が報道されることになって
いったのです。
【明日に続く。】