第2117回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年3月31日土曜日の投稿です。
【 明治時代初頭の大朝鮮国の首都 漢城 こと 現在のソウル 】
【 前話からの続きより。】
対して 申し入れを行ったと伝えられているのは、何であったのかというと、それは
廃位させ、別の新しい国王を立てるのは、思いとどまっていただけないか。」と
言う内容であったと言われています。
ロシア公使という役目は、 大朝鮮国とロシア帝国をつなぎ、交渉の橋渡しをし
たり、親善を深めたり、 その国の情報を公然と集めて、本国にその国の様子
を報告する事にあるのですが、 この度の事件は、一方的に 公使を通さず、
ずいぶん、遺憾な行動であったと考えるのですが、 それは、 袁世凱将軍も
同様であると思いますが、 良く考えないと行けないのが、 それを見咎め
国王を 強力な圧力で無理やり、 高宗を廃位させた場合、 国際社会の批判
を浴び、 特に 大日本国がどうとるかと言うことです。」と、申し立てたと言われ
ています。
【 大朝鮮国 国王 高宗 】
「 1年前の1885年 清日の天津での国際会議で、 清国の北洋大臣の李鴻章
閣下と 大日本国 伊藤 博文 全権との間で天津条約が締結されており、それ
には、大朝鮮国の自主独立を確認し、 清日双方の軍隊の撤退と、内政不介入
との条項が定められていて、昨年の6月からわずか14ヶ月で、 袁世凱将軍は、
これを侵したとなると、 その先、 どうなるのでありましょうか。」と、静かに、
袁世凱将軍に伝えたと言われています。
目をそらして、 考えこんだと言われています。
この事件、 前年の明治18年の6月の天津条約で、 伊藤 博文 公 と 西郷
従道 公が 大日本国 全権代表で天津へ乗り込んで、 朝鮮半島の恒久的
大朝鮮国の自主独立を双方が確認し、 内政は、朝鮮人の国王 高宗を中心とし
た朝鮮人の手によって行われるべきであり、 それが、1にも、2にも、 平和の
基本であって、 暴動などが発生し、 朝鮮王朝の手におえなくなった場合は、
清帝国と、大日本国が事前に協議の上、 派兵し、これを沈静化し、 すみやか
に朝鮮半島から撤退することが、 決められていたのです。
ウェーバー公使の申し入れは、 一時の感情に流されて、 国王 高宗を
放逐して その先 どうなるのか考えた時に、 清帝国の国際上の体面や、
考え、 自重していただきたいとの考えであったそうです。
【 当時の 太政官 筆頭参議 伊藤 博文 公 】
こうして 振り返ってみると、 現在の朝鮮半島や、中国大陸の学校の歴史
19年の当時、 朝鮮半島の平和を考え、 深い考えの基に 行動されていた
ことが推察されます。
【 明日に続く。】