第2121回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2120話 明治19年頃の興亜論の事。2018年4月9日月曜日の投稿です。
【 慶應義塾 主宰 福沢 諭吉 先生 】
明治19年頃の興亜論というのは何かと言うと、以前紹介したのですが、
甲解答として、 東アジア全体のアジア人が結束し、お互いを大切に協力し合い
そして、双方が発展し合い、西洋人の植民地支配から東アジア全体を守っていこう
それには、 国民の基本的人権を大切にし、 選挙による議会制民主主義の確立、
国民の平穏な請願権などなど、 いろんなことを この誌面で紹介して来ました。
福沢 諭吉先生の教えは、一貫して暴力を否定し、言論で 議会制民主主義を
確立していこうという、こういうお考えであったと言い伝えられています。
こういう考えを広く広報して、暴動による暴力や、一揆、戦争遂行の反対の申立を
行っていたので、 明治政府も 手出しが出来なかったそうです。
慶應義塾の学生 犬養 毅 生徒が、在学中、新聞社の一員として、
西南戦争に取材に赴き、 当時の様子を記事にしたことを知ると、「 人殺しを
美化した報道記事を書くとは何事か。」 と多いに批判し、 犬養 毅 生徒が
退学する原因になったことは世間に良く知られ、 戊辰戦争でも 一貫して
戦争を否定し、暴力を否定し、 上野戦争の時も、平然と授業を行っていた
福沢 諭吉先生が日清戦争で戦争遂行論者になって行った その原因とは
何であったのか、その秘密は、明治19年から27年の間の朝鮮半島に原因が
あったのではないか、そしてある出来事から、 興亜論者から、 脱興亜論者と
なり、 戦争遂行のため、広く募金を呼びかけ当時の大金 1万円 を集めて、
日清戦争遂行のために政府に寄付を行う行為に多くの人は、驚いたそうです。
当時の1万円は、現在の貨幣価値に直すと、約2億円に該当する金額で、戦争
を否定していた 福沢 諭吉先生が、 日清戦争を推進するために、寄付を行う
という行為を行うようになっていった秘密は何であったのでしょうか。
【 明日に続く。】