第2124回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2123話、 東京府 小笠原村玄洋社の農園のこと。

                          2018年4月13日金曜日の投稿です。




イメージ 1



              【 朝鮮独立党 金 玉均 元 全権公使 】


  【 前話からの続き。】


  福岡県の現在の 商工会議所というか、青年会議所というか、そんな組織

  であった玄洋社 【 げんようしゃ 】という組織は、元々は筑前黒田藩の廃藩

  置県によって失業した士族を中心とした相互扶助会のような組織であったの

  ですが、明治19年頃から、 そうーー以前紹介した 長崎事件などが発生して

  行った当時、 玄洋社の社員が「 国を磨く。」 と称して、いろんな事を行って

  いったのですが、その1つに開墾農園事業があったのです。



イメージ 2



                        【 小笠原諸島 父島 】



   当時の言い伝えとして、 誰も住んでいない未開発の地域を、玄洋社

 資金援助して、 福岡の町の失業者をそこに送り込んで開墾させて、その

 開墾の期間は玄洋社がその人達の生活を面倒をみていたとされています。 

 当時、 八丈島から さらに遠く離れた、小笠原諸島の父島に、玄洋社の農園

 があって、ここの近くの 長谷 という場所に 金 玉均氏は、匿われていたと

 伝えられています。


イメージ 3



    実は この長谷という場所が、後のいろんな事件の原点となっていったと

   されていて、 朝鮮半島からやって来た、 表向き罪人扱いで、 実は玄洋社

   の食客扱いであったそうですが、 多くの開拓民、そして 現地人を交流する

   ことで、その知識が人々から認められて、 いつの間にか 「 金 先生、

   玉均先生。」と呼ばれるようになって行ったと言われています。


イメージ 4





     これらの父島の玄洋社の農園の中に、後に 外務大臣 大隈 重信 公を

    襲うことになる 来島 恒喜 氏らがいたとされているのです。

    いったい 何が どうなっていたのか、 どうして 大隈 重信 公を襲う

    ことを考えるようになっていったのかーーー。

    次のお話しから 少しずつ考えていこうと思います。


   【 明日に続く。】