第2127回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2126話 明治中期の政情のこと。 2018年4月16日月曜日の投稿です。
【 立憲改進党 大隈 重信 公 】
【 前話の続きより。】
1881年 明治14年10月12日に発生した、通称 明治十四年の政変で、
山縣 有朋 公、伊藤 博文 公らに、 政治の中枢から追い出された、大隈
重信 公は、 その後、下野して、年が変わって 明治15年に 立憲改進党を
結成し、 その年の10月に 東京専門学校を設立するのです。
この 東京専門学校が、後の 早稲田大学になっていきます。
【 初代 内閣総理大臣 伊藤 博文 公 】
した、長州の 伊藤 博文公らは、太政官制度で実質のトップであった、公家出身
の三条 実美 卿を名誉職に祭り上げて、 その一派を 政権の中枢から遠ざけ
て行ったと言われています。
それまで、岩倉 具視 卿や、三条 実美 卿の周辺で勢力を保っていた、旧公家
出身の官吏達は、 長州や、薩摩に 遠ざけられていったと言われています。
それが、長崎事件などが発生した 明治19年から明治21年頃までの政界の
主な流れであったそうです。
【 司法大臣 山田 顕義 公 山口県出身】
この長崎事件が発生していた当時、 大日本国は、江戸時代に 徳川家が
西洋人に騙されて締結させられていた 不平等条約の改正が急務となっていて、
西洋諸国と対等な立場になるには、法律の整備を迫られていたそうです。
つまり、 西洋人から、 憲法や、法律の整っていない国とは、対等な交渉は
出来ませんと繰り返し言い返され、 条約改正交渉が多いに難航し、当時の
外務省では、各国との交渉が暗礁に乗り上げた形となっていたそうです。
相手の立場に立つと、 国家と、国家が締結した、自分の国が有利な国際条約
を「 はいそうですか。」 と、自分の国が降りになるような改正になかなか同意
する お人好しの西洋人はいなかったようです。
こうして、 太政官制度から、内閣制度に替わり、 幕末から20年を経て、
を改正するには、 日本の法律を整備して、西洋なみにする必要があったの
です。
この仕事を 長州藩の軍略家の 山田 顕義 公が中心となって、進める
事になっていったのです。
【 明日に続く。】