第2132回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年4月21日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1889年 明治18年10月18日のこと、玄洋社の社員であった 来島 恒喜氏、
の為には、小義を捨て、 手段を選ばず、その目的を完遂する。」 と言う方針を
小笠原諸島の父島で教わり、 その考えの基、 東京の外務省の周辺で、当時の
外国人裁判官制度を導入しようと、唱えていた、外務大臣 大隈 重信を殺害しよ
うと様子をうかがっていたと言い伝えられています。
そのメンバーは、数人、もしくは、もっといたと言われていますが、来島 氏が
多くの家族がいる 同社 社員の立場を心配し、周囲にウソを言い、1人で、抜け駆
けの様な形で、事件を1人で実行して行ったと伝えられています。
言い伝えでは、諸説があって、 いろんなお話しがあるのですが、外から外務省に
のような爆発物を投げつけ、 馬車が行きよいよく走って動いていたので、馬車
には当たらず、壁か、門柱のどこかに1度当たって、馬車の車輪の近くの地面で
爆発したとされています。
大隈 重信 公の馬車は、 馬は死に、 車輪が飛んで、馬車が爆発で宙に浮いた
と言われていますから、 相当な爆発であったようです。
【 明日に続く。】