第2135回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2134話 明治22年頃の日本の東京府の医療水準のこと。


                           2018年4月24日火曜日の投稿です。




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                     【  明治時代の外務省 】


  【 前話の続きより。】


   1889年 明治22年10月18日 外務大臣 大隈 重信 公の馬車が爆破

  され、 瀕死の重傷を負った、大隈 重信 外務大臣を治療するため、外務省の

  伝令が駆け込んだ医院というのは、 順天堂医院という場所でありました。



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                    【 明治8年設立 順天堂医院 】

  その 順天堂医院に 佐藤 進 先生と言う、ドイツのベルリン大学で、日本人

 として初めてドイツ語で論文を書いて、博士号を得た、当時の最先端の外科の

 先生がいらっしゃって、 外務省の伝令は、生死にかかわるので、急いで治療に

 来てほしいと頼んだそうです。

  そして、次に向かったのが 東京医学校であったと言われていて、 東京医学校

 と言う場所は、現在の東京大学医学部の前身の学校でした。


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                   【 明治時代の 東京医学校 】


  明治の初頭、漢方医学、オランダ医学が中心であった日本の医学は、その後、

 明治政府によって、イギリス医学が中心となり、 明治の中期には、佐藤 進

 先生や、 欧州へ官費留学した医師達が、 「医学の研究はドイツが最先端で

 ある。」との意見が強くなり、 ドイツ人の医師を、高額の報酬で明治政府が招き、

 東京医学校にて、生徒を養成するようになっていたと伝えられています。



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                     【 東京医学校の公舎 】


   明治22年10月18日 の大隈 重信 外務大臣が瀕死の重傷を負った

  その当時、 東京医学校に、ドイツ人の外科の先生 エルヴィン フォン ベルツ

  先生と言う 外科の達者な先生がいて、 この先生を呼ぶことになって行ったと

  言われています。



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             【  東京医学校 エルヴィン フォン ベルツ 先生 】


  こうして、 順天堂医院の佐藤 進 先生と、東京医学校の エルヴィン フォン

  ベルツ 先生が、 重傷を負った 大隈 重信 外務大臣を 診ることになって

  いった顛末ですが、 多くの人が不思議がったのは、当時、この医師が駆けつけ

  て来るまでの時間、 どうみても当時の交通事情やその他を考えると2時間以上

  はかかっているであろうし、 その間 足が吹き飛んで、出血がひどく、 よく

  命がもったものだと噂になった様です。


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    【 明治22年 爆破により瀕死の重傷を負った 大隈 重信 外務大臣



  大隈 重信 公の 強運もあったのでしょうが、 初めの応急処置がよかったの

  で、出血多量で死にいたらず、 しかし、足を根元から切断しないと、修復は

  難しい程度の足の損傷だったようです。


 【 明日に続く。】