第2137回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2136話 明治22年 大隈 重信襲撃事件の「犯人と黒幕は誰か。」のこと。
2018年4月26日木曜日の投稿です。
【 前話からの続きより。】
1889年 明治22年10月18日に発生した、外務大臣 大隈 重信公 暗殺
未遂事件で、大隈 重信公は瀕死の重傷を負うことになったのですが、 襲った
犯人は、その場で自決したので、当時の言い伝えとして、 当初は犯人の正体が
よくわからなかったそうです。
その後、自決した人が九州の福岡県の元 玄洋社の社員の 来島 恒喜 という
人物であるとわかったそうですが、玄洋社では、「 以前 社員であったが、自分
から社員をやめた人物なので、知らぬ存ぜぬ。」を繰り返したと言われています。
そんな いいわけ 当時の東京警視庁や、外務省は信じなかったそうです。
背後に 玄洋社の幹部が 襲撃の指示を出し、 来島 恒喜が それを実行
し、と考えたそうですが、肝心な証拠が無かった、 そして、犯人がその場で
自決したので、自白も得られず、 事件は迷宮入りとなっていったそうです。
この事件、いろんな人がいろんな推理をしていて、玄洋社の幹部Aの黒幕説、
朝鮮独立党の金 玉均 黒幕説、それから実は 黒幕は、勝 海舟こと、
勝 倫太郞 だったとか、 こんな推測が出て来る理由は、後年、来島
恒喜 氏の墓石を、勝 海舟 さんが作ったとか言われていて、それでこんな
推測説が出て来るのですが、本当の事は何もわかっておらず、すべてを
背負って、 玄洋社の社員 来島 恒喜 氏は、その現場で自決したのです。
日本の裁判所に 外国人判事が裁判官を勤める事に反対しての 凶行で
あったとか言われていますが、 それも 後の人の推測であり、本当の事は
わかっていないのです。
もしかしたら、 政権を追われ、立憲改進党を設立し、政府を批判していた
大隈 重信 公の演説を聴いて、共感していたところ、 一転、 政府と
よりを戻して、外務大臣に就任し、迎合政治を行っていると考えて、裏切られた
と、立腹しての犯行であったのかもしれません。
【 明日に続く。】