第2138回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2137話 玄洋社 社員 来島 恒喜氏の墓の事。

                         2018年4月27日金曜日の投稿です。




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                    【 明治初頭の 順天堂医院 】


【 前話の続きより。】


   1889年 明治22年10月19日 外務大臣 大隈 重信 公は、一命は

 とりとめたものの 右足の太ももから下を失うという重傷で、当分寝たきりとなった

 そうです。 

 その後の言い伝えによると、 当初、身元不明であった、自決した来島 恒喜氏

 当時29才の遺骨は、しばらくして遺族に戻され、 その後、玄洋社の関係者に

 よって 墓碑が造られたと言われています。

 その墓碑は複数あって、 地元 福岡県に玄洋社が造ったとされている墓碑と、

 一緒に 大隈公を襲撃する予定であった人達によって、秘密に墓碑が造られた

 とされています。


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           【 肉弾攻撃を行った 来島 恒喜 烈士 福岡県出身】


  言い伝えでは、その 造った人と言うのは、 一緒に襲撃する予定であった

 玄洋社の 広田 徳平氏と、 月成 功太郎氏であったとされています。

 この 広田 徳平 氏は、 昭和23年 悪名高い 極東軍事裁判で絞首刑と

 された、広田 弘毅 元総理大臣の父親で、 月成 功太郎氏は、広田 元総理

 の妻の父、 つまり岳父であったと伝えられています。

 その後、 ほとぼりが冷めた頃、 勝 海舟 さんが、墓を 玄洋社の 頭山 満

 氏と一緒に作り直したとされていて、 このあたりに事件の背後関係を探る糸口

 がありそうです。

 現在の定説では、 諸説がある物の、玄洋社の幹部会で、 外務大臣 大隈

 重信公を襲うことが決められ、 福岡市から数名東京に転進し、その襲撃の場所

 日時が探られ、決定されたのですが、 妻や親族がいる他の人をかばい、騙して、

 来島 恒喜 氏が、予定より早く、一人で決起し、事件を起こし、一人で自決して

 事件を背負って死んでいったようです。


  【 明日に続く。】