第2139回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2138話 明治22年 第1次黒田内閣総辞職のこと。
2018年4月28日土曜日の投稿です。
【 明治初頭の 順天堂医院 】
【 前話の続きより。】
1889年 明治22年10月19日に 外務大臣であった大隈 重信公は、右足
切断手術を受けたのですが、 当時の内閣総理大臣であった、薩摩出身の黒田
奏上し、大きな政局になって行ったのです。
薩摩の黒田公としたら、 せっかく諸外国と話をまとめて、条約を改正しようと
したのに、その改正しようとした内容に、長州の 山縣 有朋公や、井上 馨 公
が反対し、 「 そんなことを言うのであれば、おぃはしらん、 勝手にせい。」と
これが、大隈 重信公 暗殺未遂事件から7日後の明治22年10月25日の
出来事であったそうです。
【 総辞職した 内閣総理大臣 黒田 清隆 公 鹿児島県出身 】
ところが、 薩摩閥の重鎮 黒田 清隆 公が、総辞職して、 当然、彼は
長州閥に腹を立てていたようで、 次の条約交渉には反対の立場をとることが
予想され、 次の内閣総理大臣を引き受ける人が現れなかったのだそうです。
いうと、 当時、だれもが出来ないと考えていたようです。
【 第3代内閣総理大臣 三条 実美 公 】
そういう、政治空白が出来ていき、 薩摩閥は辞表を出してしまい、長州閥は
総理大臣兼任として勅命を出したとされています。
黒田 清隆公が腹を立てて、やめてしまい、 空席のままであったと、言う説も
あって、よくわかっていない部分です。
そんな明治22年の10月11月の2ヶ月間、 薩摩閥の重鎮 黒田 清隆 公は
多いに機嫌が悪くなり、薩摩閥と長州閥が対立するそういう政局になって行った
とされています。
次の事件は、 そんな 空転していた日本の政界に大きなショックを与え、黒田公
が失脚する原因になっていった事件が発生したのです。
【 明日に続く。】