第2151回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2150話 金 玉均暗殺事件の東和洋行ホテルの事。 

                      2018年5月10日木曜日の投稿です。





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     【 和田 延次郎 少年からの話を聞いて 激怒した 福沢諭吉 先生】



  1894年 明治27年4月頃、 帰国してきた 和田 延次郎 少年の話によると、

上海に入港した 西京丸を降りたのは、明治27年3月27日 夕方の17時頃で、

上陸して、他の乗船客と一緒に 上海のアメリカ租界地域にある、東和洋行ホテル

というホテルに入ったとされています。


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  当時、上海の中に、アメリカの領土のような、清国の主権が及ばない、アメリ

租界【 そかい 】という 区画、町があって、 ここに 日本人の吉島 徳三氏の経営

する 日本風の瓦葺きの三階建ての東和ホテルがあって、1階がロビーで、2階、

3階が客室であったとされています。

金 玉均氏は、一緒に西京丸に乗って 上海に到着した、日本海軍の島崎海軍大佐

が宿帳を書いて、3階に上がった後、 1階の宿帳に、 日本人 岩田 周作 と

記名し、2階の左側の1号室に、 同行してきた、和田 延次郎少年は北原延次と

いう名前を記名し、金氏と同室となり、2号室には、 同行してきた 洪 鐘宇 氏と

呉 静軒 氏が相部屋で泊まる事になったと伝えられています。



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   当時、後に検証してみると、変異があったのは当日で、夜 2号室に泊まって

いた 洪 鐘宇 氏と、呉 静軒氏は、2名で外出し、 どういうわけか、遅くに 洪

鐘宇 氏のみ 東和洋行ホテルに戻って来て、 そのまま呉 静軒氏は朝方まで

戻って来なかったそうです。 

ところで、 福沢 諭吉先生が後に調査すると、 この 呉 静軒とは 偽名で、

本名は、呉 保仁 という人物で、 清国公使館の通訳であったとされています。

こうして、 暗殺された 金 玉均氏 と 和田少年は、二人とも、本来の自分の

名前を書かずに、 宿帳に、 岩田 周作、 北原 延次 と書いていたとされて

いて、 実は ここの 東和洋行ホテルは、日本の外務省の諜報組織の一部で、

経営者の 吉島 徳三 氏は、 日本の上海領事館の 代理公使 大越 成徳氏

に、 宿に泊まっていた人の名前などを報告していたとされています。

こうして、 日本の外務省に 日本人 岩田 周作 なる 不審人物が、上海

に滞在しているとの情報がもたらされたとされています。

 そして、この情報は、翌日 電信で 外務省に入電され、当時の外務大臣

陸奥 宗光 氏の知るところとなっていったそうです。


   【 明日に続く。】