第2165回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2164話 東和洋行ホテル事件 金 玉均氏の遺体のその後のこと。


                          2018年5月24日木曜日の投稿です。




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  【 前話の続きより。】


 殺害された金 玉均氏の遺体の引渡に反対していた 付き人の和田 延次郎

少年から 遺体を無理矢理引き離す形で、 金 玉均氏の遺体は清帝国の役人

に引き渡され、その後、 どうなったのかと言う事は、当時、その場ではわから

なかったそうです。

つまり、和田 延次郎少年や、現地の上海日本領事館の外交官らは、知らなか

ったようです。



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   その後、 和田少年が日本の神戸に帰国して、 しばらくすると、金 玉均氏

 の遺体の行方が、朝鮮半島から伝わって来たとされています。



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                 【 朝鮮独立党の 朴 泳孝 氏 】



  これらの遺体の行方のお話しが、誰によって伝えられたのかは、定かではなく

 諸説があるそうですが、 有力な説として、 当時、 朴 泳孝 氏らの朝鮮半島

 での諜報組織から、遺体のその後の情報が、慶應義塾一門に伝えられたという

 お話しもあるそうです。

 上海から、清国海軍の艦艇に乗せられて、仁川港まで運ばれた、 金 玉均氏

 の遺体は、 首都 漢城に運ばれて、袁世凱将軍らの命令で凌遅の刑に処せ

られたと言われ、なんと、遺体が両手足を切り取られ、バラバラにされたとされて

います。


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          【 当時 朝鮮半島に君臨していた 袁世凱将軍 】


  これらの命令は 朝鮮駐留の 袁世凱将軍から出されていたとされています。



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  バラバラにされた 遺体は、首、手、足、胴体 と 別々の場所で 高札を立て

  て、 その罪状が書かれて さらし者にされたとされています。

  

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  こうして、 金 玉均氏は、遺体となって朝鮮半島に帰国し、バラバラにされて

  さらし者にされたとあって、その情報は、 その後、数日経って、日本の東京府

  に伝わって来たとされています。



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         【 現在の大韓民国の国旗の原型を考えた 金 玉均 氏 】



  こうして、現在の大韓民国の国旗、テグ旗の原画を描き、旗を作り、初めて

  日本の神戸の西村屋旅館の前に掲揚した 金 玉均氏は、無惨な最後を遂げ、

  その情報は、東京の 福沢 諭吉先生ら、慶応一門に伝わったとされ、関係者の

  怒りを買うことになったとされています。



  【 明日に続く。】