第2172回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2171話 東学党の乱 崩れていった伊藤博文内閣の文民統制の事。

                      2018年5月31日 木曜日の投稿です。




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                       【 当時の外務省 】


     【 前話の続きより。】


    2代 内閣総理大臣 黒田 清隆 公が、朝鮮に外交交渉に出かけ、

  日本の事を、 大日本国と呼び、 朝鮮の事を 大朝鮮国と呼び、当分この

  名称が使用され、 明治憲法の発布と前後して、 大日本帝国と改められ、

  また、内閣総理大臣が 伊藤 博文 公になっていた当時、 外交は内閣の

  下で、外務省が行っていたのですが、 陸軍が一人歩きの暴走を始めていった

  というか、計画的に戦争を行うように作戦を立てて、内閣を戦争に追い込んで

  行ったというのが 明治27年の前後のお話です。

  
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   初めは、朝鮮半島の有事の時のために情報網を構築すると称して、朝鮮人

  朴 泳孝氏らのグループを使用して、反体制派との連絡を取りつつ、いろんな

  行為をその後、隠密に内閣に隠して行うようになって行ったとされています。

  明治27年、 日本陸軍と連絡を取り合っていたとされる 大院君 興宣が、

  東学党の乱と呼ばれる 朝鮮半島全体に及ぶ、 宗教を利用しての市民の

  反乱を煽動し、 東和洋行ホテル事件で射殺された 金 玉均氏が殺害された

  3月後半には、朝鮮半島は混乱の渦の中にあったとされています。



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   数ヶ月後、 日本陸軍朝鮮半島在住の日本人保護という名目で、陸軍の

 部隊を朝鮮半島に動かし、 内閣は少数の部隊の朝鮮への移動を認めるので

 すが、 その後、勝手にどんどん部隊を移動させていき、 日清戦争になって

 いったのですが、 内閣の意向に反して、 軍人が暴走していった元年になって

 行ったとされています。


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   当時の 伊藤 博文内閣は清国との国際条約で、 つまり以前紹介した

 天津条約で、朝鮮半島に軍隊を派兵しないことに双方が合意しており、これを

 遵守する立場であったのです。

 これを破ったのは、 日本側で、 日本陸軍の陰謀であったとされています。

 大院君 興宣も 日本陸軍も、朝鮮独立党も当時、協力関係にあったのですが、

 双方、利用するだけで、深い仲ではなかったようです。

 1歩進んで、日本に頼ることなく、 大院君 興宣一派が、東学党という宗教

 団体を利用して、反乱を起こし、 国王 高宗と、閔氏の勢力、 つまり事大党を

 揺さぶり、 重税に不満を持っていた庶民が、大挙して暴動に参加していった

 これが、明治27年初頭の出来事であったようです。



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                         【 慶應義塾一門 】

   これになって、明治27年4月に入ると、以前紹介した 東和洋行ホテル事件

 で、 清国の日本公使館 李 経方公使に騙されたと憤り、批判を強めていった

 福沢 諭吉先生らは、 清国武力討伐を叫ぶようになって行った、これに連動して

 九州では 玄洋社のメンバーや、関西では、旧近畿自由党のメンバーなどが、

 「清国を武力討伐せよ。」などと、集会を開催し、 新聞社も 同様の報道を

 行って行った結果、 知識の薄い人を中心に、 新聞報道に煽られて、戦争を

 叫ぶようになって行ったとされています。



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  「 天津条約は、国際条約で、 大日本帝国は 朝鮮半島には軍隊は派遣しない

と条約を結んでおり、 朝鮮半島へは内政干渉は出来ない。」と、表明していた

 伊藤 博文 内閣を 腰抜け呼ばわりし、 日本は戦争に巻き込まれていった

ようです。


   【 明日に続く。】