第2189回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2188話 乙未事変前夜のこと。

                    2018年6月18日月曜日の投稿です。





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                【 大朝鮮国の首都 漢城 こと 現在のソウル】



    【前話の続きより。】


    日清戦争終結から7ヶ月後、 三浦 梧郎 元陸軍中将が朝鮮公使として

 漢城に赴任してきた約1ヶ月後の1895年 明治28年10月7日、日が沈んだ後、

 続々と部隊が移動を開始したとされています。


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          【 当時の一等書記官 杉村 濬 ふかし 氏】


    当時の一等書記官 杉村氏の生前の証言では、「日本公使館はあくまでも

  反乱に加わらず、 公使館の防衛を主に行っていただけである。」と証言し、



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                      【 当時の漢城新報社 】


 漢城新報社の主宰、 安達 謙蔵氏の呼びかけに応じた、日本人 民兵組織

も同様であったとされています。



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   朝鮮側の後の裁判記録によると、 朝鮮人の訓練隊2個大隊と、その他の

  閔妃に不満を持つ一派の軍勢、 東学党の影響下の農民軍など多数が

  夜中に集結し、 景福宮をめざしたとされています。




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   三浦 梧郎 公使は、 公使館警備隊の陸軍1個中隊、 公使館の警察官

  などを率いて、 公使館に警備の部隊を残して、夜半出発し、 日付けが変

  わった10月8日の暗い時間帯に、景福宮の外に布陣したとあります。

  後の申立では、ロシアの介入を牽制するために、布陣したと申立があったそう
  
  ですが、それと同じ時間帯に、 訓練隊の朝鮮人部隊を主力とした決起部隊は

  大院君 興宣が根回しした、王宮の内通者によって、開かれた門からどっと

  進入していったとされています。


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  こうして、 明治28年10月8日の朝、2時から3時の夜中に王宮は、軍勢が

 進入し、 あっという間に制圧されていったとされています。

  これらの部隊を動かしていた 前軍部協弁の 李 周會 なる人物によって

 王宮は占拠され、 「閔妃を捜して 殺してしまえ。」と、命令が出たのですが

 肝心の閔妃の顔を見たことのある兵士がいなかったのだそうです。


 【 明日に続く。】