第2191回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2190話 乙未事変 三浦 梧郎 朝鮮全権公使主犯説の謎のこと。




                        2018年6月20日水曜日の投稿です。




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       【 乙未事変で殺害された、大朝鮮国 国王 皇后 閔妃 びんひ】


 
  【 前話の続きより。】


    内閣総理大臣 伊藤 博文 公 や、当時の外務次官 原 敬 氏ら、政府

  要人が、朝鮮全権公使 三浦 梧郎 元陸軍中将らが 一人歩きして、決起し

  て、 朝鮮全権公使の職権を濫用し、内閣の方針に反して単独行動をおこし、

  皇后の閔妃を殺害し、 国王 高宗を監禁し、 父親の大院君 興宣を担ぎ出し

  王宮を占拠したと思ったというか、信じたのは何故か。

  乙未事変の謎の1つです。

  これにはいろんな説があって、 もっとも有力な説は、抑止のために、王宮の

  外に三浦 梧郎 公使らが陣を構え、ロシア側を牽制した行為が、 外から

  見たら、 日本公使館の陸軍部隊や、日本人の民兵組織が武装決起したと

  見えたようです。



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                    【  大朝鮮国 国王 高宗 】


   年が変わって、日本側に伝わった来たとされている 閔妃殺害の顛末には

 国王高宗の証言や、その息子、宮中の宿直の官吏の証言などが裁判証言

 として提出されていて、 ここには、日本陸軍部隊や、大陸浪人などの部隊が

 閔妃を襲ったとかは、記載が無いのです。


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 王宮の中から見ると、 武力決起したのは、朝鮮人の訓練部隊の朝鮮人

 幹部と兵士達であったとしか書いてないのです。


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 つまり、 日本人は後宮と呼ばれる閔妃が住んでいた場所には乱入などは

 していなかったことになっています。




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  外から、 つまり 朝夜が明けて、ロシア公使館や、市街地から王宮の入り口を

見ると、日本公使館の警備隊の陸軍部隊が陣を構えていた、 中に入ろうとすると

制止された、それ故、 三浦 梧郎 朝鮮全権公使らが反乱を起こしたと思われた。

それから前年、日本陸軍が 王宮を制圧し、清国人官吏を捕らえ、日清戦争

起こしていったので、 また、日本陸軍が王宮を占拠したと思われても不思議では

なかったようです。


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   上の写真は大正時代の当時の王宮 景福宮の珍しい空撮の写真ですが

  1895年 明治28年 10月8日の夜明け、 ここに 国王 高宗の父親で

  対立する 大院君 興宣 が王宮に乗り込み、 閔妃の遺体を見分し、「焼却

  して灰にしてしまえ。」と命令したと伝えられています。

  当日、 漢城の周辺や、 世界各国の外交官は、王宮の外に 日本陸軍が陣

  を張り、出入りを規制し、 何があったのかわからず、「王宮で異変があったよう

  である。」とモールスを打ったようです。


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  これらの電信文は、 回り回って、 数日後、広島大本営の知るところとなって

  いったようです。


  【 明日に続く。】