第2194回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2193話 乙未事変 逃走した事大党の官吏達のこと。
2018年6月23日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1895年 明治28年10月中旬になると、大院君 興宣は、閔妃の処刑を
発表し、永宣君を流刑地から脱出させ、次に行おうとしたことは、国王 高宗を
退位させ、 自身の都合の良い王を新しく即位させようとしていたとされています。
一説によると、死刑判決を受けた永宣君を次の国王に据えようとしていたと言う
説もあります。
ところで、閔妃とその一族、そして、それらの下に組していた、事大党という
派閥の官吏達は、 朝起きてみたら 突然、王宮でクーデターがあり、翌日には
皇后、閔妃が殺害され、 王妃から身分を剥奪する高札が掲げられ、それを見た
事大党の官吏達は急いでロシア公使館や、アメリカ公使館や、フランス公使館や、
大ドイツ帝国公使館に駆け込んで、生命の保護を申し出たとされています。
逃げ遅れた 閔妃派の官吏達は、 大院君 興宣派の軍勢や、訓練隊の
大隊兵士に捕まり、殺されたり、 捕らえられたとされています。
ところで、10月8日を境に、 それまで権勢を維持していた 事大党という
閔妃を中心とした政治グループは、消滅に近い形で縮小していったのです。
ここに清国を利用して 国内を統帥し、 清国が日本に敗れると、日本に
乗り換え、 5月に フランス、ロシア、ドイツの参加国の圧力に屈して日本が
政権を維持しようとしていた閔妃達の政治グループは武力によって放逐されて
いったのです。
当時の日本人は、 日本が日清戦争に勝って、清国を追い払ったので
朝鮮半島は、日本の好きにすべきであると考えていたようですが、実際の
国際社会はそうではなかったのです。
おそらく、軍人で、元陸軍中将であった 朝鮮全権公使 三浦 梧郎 公使は
前者の考えであったろうと推測します。
彼には、戦争に勝って、大きな領土を多大な犠牲を出して占領したのに、
半島を失いつつあり、 なんとかせねばならないと考えての行動であった
ようですが、 当時の漢城駐在のヨーロッパの西洋人の外交官から非難を
受けていったのです。
当時のこれらの出来事への抗議が西洋列強諸国の外交ルートで
当時の広島大本営に伝えられ、今後どうするのか、当時の内閣は決断を
迫られていったのです。
【 明日に続く。】