第2199回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2198話 乙未事変 三浦梧楼 朝鮮全権公使ら捕縛命令の事。
2018年6月28日木曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1895年 明治28年 10月24日 広島大本営は、外務省 小村 壽太郎
政務局長の報告を基に、朝鮮全権公使 三浦 梧郎を謀殺罪で起訴し、解職を
日本人など48名に対して捕縛命令が発令されたとされています。
ぶんとずさんな決定で、 当日、旅行を兼ねて釣りに行って不在だった日本人まで
逮捕するという、問答無用の行為に至ったとされています。
特に漢城新報社 主宰 安達 謙蔵 氏に至っては、新聞配達のネットワーク
を利用して、危険回避のため、漢城在住の日本人に、密かに避難を伝達し、自衛
組織を日本公使館と打ち合わせの上、結成したに過ぎず、 いつの間にか、自らが
罪である。」と訴えたのですが、 日本からやって来た外務省の職員と陸軍関係者
に問答無用で連行されていったとされています。
【 当時の漢城新報社 】
こうして、戦後の現在で言えば、 韓国大使館の大使以下職員が全員逮捕
されるという感じの事件が明治28年10月8日の乙未事変発生から16日後に
発生していった様です。
【 当時の朝鮮公使館 杉村 濬 ふかし 一等書記官 】
当時の一等書記官 杉村 濬 氏の生前のお話しでは、 「三浦閣下と、小村
政務局長の間で口論があった様だが詳細は不明である。」と語られていたそうで
日本から、小村 壽太郎 政務局長らがやって来て、朝鮮全権公使 三浦 梧郎
元 陸軍中将と 今後の方針についてもめたようです。
おそらく、推測ながら、 三浦 梧郎 朝鮮全権公使は、乙未事変を起こした
大院君 興宣を中心とした武力決起したグループを支持し、今後の朝鮮の政治
は彼等を中心とすべきであると考え主張したようです。
伊藤 博文 内閣総理大臣 の代理と称して、乗り込んで来た 小村 壽太郎
外務省 政務局長は、以前の状態に戻すよう主張し、 2人の関係は収拾が
つかなくなっていったようです。
陸軍出身であった 三浦 梧郎 元陸軍中将には、容認できなかったようです。
遠く、広島にあって、この捕縛命令を出した 伊藤 博文 内閣総理大臣は、
その後、 全員が無罪となり、 大恥をかくことになっていったのです。
なぜなら、 その後の裁判で出来事を精査していくと、全員 戦闘には参加して
おらず銃弾も発射していなかったからだとされています。
【 明日に続く。】