第2201回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年6月30日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
犠牲者を出して占領したのになんで撤退する必要があるのか、 朝鮮半島も占領
考えるのは、当時の庶民も一緒であったのです。
部隊の兵士は、満足な防寒着も支給されず、 靴下もなく、手袋もなく、熊本から
夏服のまま、山東半島に出兵し、多くの凍傷患者を出したのです。
靴が無く、草鞋を履いていたので、手や足が凍傷となり、 医療水準の低かった
当時、切断するしかなかったのです。
こういう人達の物差しで当時の外務省の行為を測ると 許せない暴挙であり、
逆に、 三浦 梧郎 全権公使のとった行為は、拍手喝采ものであったのです。
【 当時の連合艦隊司令長官 伊藤 祐享 海軍大将 】
大狐山沖合の海戦で、 勝利を収めたものの、 多くの艦艇に被害が発生し、次
の海戦を行える状態ではなかったのです。
また、陸軍の師団も、占領地の点と線を維持するのが限度で、 さらに国庫は
軍事費が底をついていたのです。
そのような中、伊藤内閣としては、 台湾に続いて、次の出兵を行い、ロシア帝国
につながると考え、 向こう5年間は戦争を避け、国力を回復する事が大切である
との決断に至ったようです。
訓練部隊 2個大隊が、閔妃と閔氏の一派と訓練隊の解体をめぐって対立し、武力
ことであると 西洋諸国に対してアピールし、第2の戦争を避ける行為に出たよう
です。
当時、 陸軍では 東京第1師団から熊本第6師団まで半島に出陣し、被害甚大と
次の戦争を行える状態ではなかったのです。
ところが、 陸軍中将であった 三浦 梧郎 朝鮮全権公使らには、わかって
いたのですが、それでは、せっかく陸軍が多大な犠牲を出して占領した占領地域
を失ってしまうと、多いに将来を憂い、内閣の正反対の命令との間で、知恵を絞って
の乙未事変の対応であったのですが、 事件関係者全員捕縛、広島監獄に収監
という 前代未聞の出来事に発展していったようです。
ところで、 アメリカ合衆国は、海軍の艦艇を仁川沖合に派遣し、自衛の為と
称して 大量の武器弾薬を公使館に搬入し、 これを見た、ロシア帝国の公使館
も、応援の部隊を要請し、ロシア帝国の艦艇が仁川沖に展開し、陸戦隊が上陸
し、漢城に向けて進み出したのです。
こういう経緯で、 当時、 大朝鮮国の首都 漢城に、「自衛の為。」と称して、
各国の公使館周辺に、大量の武器弾薬が運ばれ、 緊張に包まれていったのです。
当時の 世界第2位の海軍力を持っていた大ドイツ帝国や、 清国の海軍を破った
ので、 替わりに混乱に乗じて植民地にしようと 動き出していったとされています。
【明日に続く。】