第2216回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2215話 忠清道 【チョンチュンド】の争乱のこと。
2018年8月17日金曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1895年 明治28年11月29日に 当時の大朝鮮国の首都 漢城こと 現在
のソウルで発生した 春生門事件と呼ばれる争乱は、ロシア帝国の支援を受けた
李 範晋 と言う人達の煽動によって多くの人達が参加したのですが、「 国王が
監禁されている。」と言うお話しが虚偽であることが知れると空中分解するように
参加者が去っていったのです。
一部の数人のメンバーが取り押さえられ、王宮に突き出されたそうですが、首謀
者の中心人物 李 範晋 と言う人達はロシア公使館に逃げ戻り、その後、南部の
忠清道 チョンジュンド という地域に逃走し、 ここで 年が変わって1896年、明治
29年2月5日頃、この地域の人達を煽動して反乱を起こしたとされています。
以前の大朝鮮国ならば、 清国の軍勢が軍事介入したりして武力討伐したので
しょうが、日本に追い出されて清国は軍事介入は出来ず、 そして 清国を追い
払った日本はどうしたかというと、 当時の伊藤 博文内閣が、内政不干渉の
【 当時の朝鮮全権公使 小村 壽太郎 氏 】
立場をとっていたので、 軍事介入して 争乱を鎮圧することを行わなかった様
です。
結果、首都漢城の南の地域で 争乱は拡大していったとされています。
長い間、清国に貢ぎ物と称して、多額の年貢を取られていた大朝鮮国は、日清
戦争で日本が勝利して 清国が追い払われたのですが、 わずか数ヶ月後の為、
国庫にお金がなく、 食糧もとぼしく、 反乱が起きても 自ら鎮圧する国力を有し
ていなかったそうです。
自分で、自分の国を守って 維持できないと よその国が入り込み、どんどん国が
無くなっていく、 そういう経過を一緒に勉強して行きましょう。
【 明日に続く。】