第2200回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2199話 露館播遷 初代内閣総理大臣 金 弘集氏の最後のこと。
2018年8月21日火曜日の投稿です。
【 前話からの続きより。】
1896年 明治29年2月11日 突如、王宮から国王 高宗の姿が消え、多
くの人がうろたえて逃走する中、 1人王宮に最後まで残っていたとされる 初代
内閣総理大臣 金 弘集 【キム ポンジブ】 氏は攻め寄せて来た軍勢に捕ま
り、集団リンチを受けて殺害され、 首都 漢城の町中を遺体を引きずって見せし
めにされたと言い伝えがあるそうです。
行年 54才で最後を遂げられたのですが、 金 弘集 氏と言う人は、どちら
かというと 中立派的な人でありました。
開化派 と呼ばれる、 日本を模倣して、身分制度を廃止して西洋化を進めようと
いう政治勢力、 事大党と呼ばれていた、国王を中心として、身分社会を守り、自分
達の立場の安定を求めようとする勢力との中間にあって、朝鮮半島の治安の安定
を第1とし、現在の制度を残しつつ、少しずつ、少しずつ、西洋のよい部分を朝鮮に
取り入れていこうという そういう立場の人であったのです。
彼は元々は 日本で言えば外務大臣に相当する役職の人で、日本との外交
交渉の場には必ず同席して交渉に当たってきた、 大日本帝国の伊藤内閣は、
朝鮮半島の治安の安定を第1として彼を支援していたようです。
ところが、ロシア帝国側にはじゃまな人物であったようです。
ロシア帝国は 事大党と呼ばれる勢力を軍事支援し、 金 弘集氏らの知らない間
に国王 高宗を王宮から連れだし、手元に置いて後に、 王宮を攻めて彼等を
殺害してしまったのです。
【 当時の 大朝鮮国 全権公使 小村 壽太郎 氏 】
当時 朝鮮公使館の小村 壽太郎 公使らはいったいどうしていたのかと言うと
外務省に対して電信で事態の急を告げ、 どうするのか命令を待っていたそうですが
いつまで経っても返事が無かったそうです。
事態の急を告げる電信の報告は日本に届いていなかったというのが真相で、
届いていなかったので いつまで待っても指示は来なかったようです。
後でわかったことですが、数日前に密かに日本公使館の電信施設は
途中で細工がなされ、連絡が出来なくなっていたと言い伝えが残ってい
ます。
親ロシア政権が誕生していったのです。
戦後、多くの人達が思い込んでいる 日清戦争に勝利して 日本が朝鮮
お金を清国に支払ったと主張して、日本陸軍の撤退を武力で威嚇してこれを
データーを起こして、 朝鮮国王 高宗をロシア公使館に移して、景福宮と呼ば
れていた王宮を攻め、当時の朝鮮政府の要人を殺害し、ロシア帝国の傀儡
政権を樹立していったのです。
後に 明治政府の体面を保つために 都合の悪いだまされた事は 闇に葬られて
いったのです。
この会談で 騙されていなかったら、歴史が変わっていったかも知れませんし、
後の日露戦争も発生していなかったかもしれません。
【 清国全権 北洋大臣 李鴻章 氏 】
しかし反対の立場から見た場合、 フランスとベトナムで戦争となり大敗し、
お金の無かった清国は、下関で 伊藤総理らを騙して戦争を休戦し、日本の
国民が万歳三唱を行っていた当時、 日本に渡す約束した地域をドイツ帝国や
ロシア帝国に引き渡して 彼等に与えることで、彼等は当時の最新の軍事要塞
を建設し、日本人が攻めてこれないようにしていったのです。
清国人としたら、一時的に土地を彼等に渡しても、 期限が来たら清国に土地が
戻って来て、 お金も手に入り、 日本との防波堤の役割をロシア人やドイツ人が
行ってくれて、 防衛費も彼等負担なので 清国にとっては有益であったのです。
後の言い伝えでは、「 狂さん しもうた やられてしもうた。」 と、山縣 有朋
公に愚痴をこぼしたと伝えられています。
犠牲者を出したのですが、占領した地域から徐々に追い出されていったのです。
【 明日に続く。】