第2203回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第2202話 海軍兵学校 第52期少尉候補生 大連上陸のこと。
2018年8月25日土曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
【 当時 遼東半島は日本の領土で 大連は大都市であった。 】
いったのです。
当時の練習艦隊の司令長官は 古川 鈊三郎【しんざぶろう】海軍中将で
ありました。
古川 司令長官は、当時 本省派 と呼ばれる 山本 権兵衛 海軍大将の
ついて 山本 権兵衛 海軍大将こと、 前年の 内閣総理大臣 山本 権兵衛
さんに長くお仕えしていた 本省派の軍人でした。
あって、私達、少尉候補生がお話しできるような身分の人では無く、 雲の上
の人でありました。
ところで 私達が大連に到着すると、 大連在住の日本人の町内会の人達が
港で整列して出迎えてくれたのです。
当時、 港に近づくと、「 大日本帝国 ばんざーぃ 。」 と 旗を振って出迎えて
いただき、 とてもよい気分になったことを覚えています。
私達は大連の港に上陸すると整列して 出迎えのみなさんに心を込めて
敬礼を行い転進を開始したのです。
みんなに整列して 旗を振って出迎えていただくと、それは それは とても
気分が良くて上機嫌になったのを覚えています。
赤煉瓦の建物で 辛抱して卒業してよかったと思った瞬間でありました。
行き先は、当時告げられず、どこに転進するのか知らされなかったのですが、
概ね、 大連の市街地であろうと思っていました。
私達は日本橋と呼ばれる 大連のメインストリートを通過して
山縣通り と呼ばれる それは それは 内地の道とはかけ離れた
道幅の広い大通りを通ることになって行ったのです。
山縣通り とは、 第3代 内閣総理大臣 山縣 有朋公の名前をとって
つけられた 大連の大通りでありました。
【 海兵52期 八雲 少尉候補生 集合写真 】
もくもくと 行進していた私達は みなみな口には出さぬものの
【 当時 人より目立つことばかり考えていた 若い頃の写真 】
「いずれは 東郷 平八郎 元帥のような大手柄を立てて、
自分の名前のついた通りを いずれは造ってやるんや。」と、こんな思
いの野心に満ちあふれていたのでした。
【 明日に続く。】