第2204回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2203話 ダルニー港と東清鉄道のこと。2018年8月26日日曜日の投稿です。






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      【 大正13年当時の日本海軍 練習艦隊 司令部 集合写真 】




 【 前話の続きより。 】



   関東大震災の翌年の大正13年、海軍兵学校 第52期の少尉候補生

であった私達は、日本領の大連港に転進し、日本橋や山縣通りを行進しながら

見物しまして楽しんでいたのです。


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                  【 当時の大連市のメインストリート 】



  ところで 私達が訪れたのは ヤマトホテル というホテルの前でありました。

 当時、大連で1番大きな格の高い宿泊施設であったのです。



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    そこには 大きな山縣公の銅像が造られていて、 それをみんな見上げて

  いずれは我も後につづかんと思ったものです。

  ヤマトホテルに泊まるのかと思っていたら、残念な事に艦に戻ると知らされ、

  「 なんゃぁ、ーーー。」と、 心の中で当時思ったものです。

  実は、 ヤマトホテルでは上等な食事が出ると聞いていて、「ぜひ 1度食べて

  みたいもんや。」と いつもお腹をすかしていた当時思ったのです。


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  ところで、この大連という町が商業都市として発展し、昭和の15年頃には、

 満州国の貿易額の75パーセントを大連が占めていたのです。

 「どうして大連に集中していたのか、 その理由を述べよ。」と、問われると

 当時多くの少尉候補生が解答したのが、「 それは港と鉄道であります。」と

 回答すると、「 乙 解答。」 つまり 2番評価の解答でありました。

 1番評価の 甲解答はどうであったのかというと、「 ダルニー港と東清鉄道で

あります。」となるのです。

ダルニー港とは、ロシア人がつけたこの大連港の名前で、 ダルニーと書くと

遠い港と言う意味があるそうです。

東清鉄道というのはロシア人がシベリアからこの地に鉄道をしいたのです。



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   どうしてロシア人はこの大連という地に 0から港を造って 鉄道を敷こうと

 したのか、どうして日本人はそれを阻止しようとしたのか、 日露戦争の素因

 でもあったのです。

 そして 日露戦争によって失ったロシア人は 昭和20年 この地を取り戻すた

 めに日ソ不可侵条約を破棄して攻め込んできて、 大連などを占領し、昭和

 26年まで この大連を占拠しつづけたのです。

 それだけ ロシア人、つまりソビエトにとって ほしい場所で どんな利益があった

 のか、毎日少しずつ勉強して行きたいと思います。




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                【 大日本帝国 関東州 大連の位置図 】


    実は ロシア人は 旅順に軍事要塞と軍港を造ったのですが 湾が狭く

  多くの商船が出入りするには狭かったのです。

  そこで 現地を歩いて調査して、 多くの物資を陸揚げしたり、積み出したりする

  港として 大連の漁村に目をつけて、住んでいた人々を追い払い、港を造って

  いったのです。

  そして旅順や大連にシベリアからの物資を陸上から運ぶために 東清鉄道を

  造っていったのです。


  【 明日に続く。】