第2209回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2208話 旅順要塞 マキシム機関銃と手投げ弾のこと。
2018年8月31日金曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
どうして旅順要塞を日本陸軍が無理をして攻めることになって行ったのかという
と、日本海軍が陸軍に旅順要塞の攻略を強く要望したからであったのです。
当初は、 旅順要塞を陸軍の第3軍で包囲してそのまま監視する程度の計画で
日本の輸送船を撃沈し、 陸軍の応援部隊を載せた輸送船が撃沈され、
多くの人が輸送船事1度に対馬海峡で沈没して戦死するという事件が続いた
のです。
輸送船を護衛していたのは当時の日本海軍の第2艦隊で、ロシア太平洋艦隊
がなかなか捕捉できず、日本の輸送ラインを脅かしていったのです。
高速で海上を移動するロシア太平洋艦隊の位置の特定が出来ず、こまりはてて
いったのです。
そのような出来事が続いて、やっとロシア太平洋艦隊を見つけて、攻撃すると、
ロシア太平洋艦隊は、旅順要塞の中に逃げ込んで出て来なくなったのです。
の海岸の砲台から射撃を受け 損害が広がって行ったのです。
当時の記録には、ロシア側の海岸の砲台の射程が長く、日本海軍の
艦艇が近づくと、一方的な射撃を受けていったとあります。
そのような事情で、 遠巻きに包囲していると、 夜 ロシア艦隊が出て来て
夜襲を受けたり、 いろいろあったそうです。
【 旅順要塞の布陣図 】
そのような事情で、当初は戦争が終わるまで包囲して、放置しておく
予定であった 旅順要塞を 陸軍が力攻めにすることになって行ったのです。
乃木 希典 陸軍中将の第3軍司令部の統帥下に、右から、善通寺の第11師団
金沢の第9師団、 東京の第1師団、旭川の第7師団の4個師団が攻撃し、後に
予備兵力の東京の 近衛師団まで加わって激戦が繰り広げられることになって
行ったのです。
【 日本側から 旅順要塞の布陣図を見る。】
ところで、 この旅順の戦闘は後に第1次世界大戦と呼ばれる 欧州大戦の
先駆というか、 陣地戦の始まりの様な戦闘であったのです。
前進していくという戦術をとったのですが、 ベトンと呼ばれるトーチカで、
相手に被害をあたえることが出来ず、 当時の新兵器の機関銃と手投げ弾
などで ロシア軍が応戦し、数万人という死傷者を出す悲惨な出来事に発展
していったのです。
ロシア側には、 マキシム機関銃という銃身の筒に水を充填して、ベルト給弾
式の長時間連続射撃の可能な重機関銃が配置されていたのです。
そして、 山の上の陣地から 手投げ弾という、 炸裂する爆弾が投げつけられ
日本陸軍では多くの戦死者が出ることになっていったのです。
日本陸軍も当時の最新兵器のホ式機関銃という機関銃を装備していて、
ロシア側に発砲していったのですが、このフランスから輸入した ホッチキス
という機関銃は、 長時間射撃すると銃身が焼けてしまい、使えなくなっていくと
いう欠点があり、 クリップ式の給弾の為、連続射撃に限りがあたのです。
反面、ロシア側のマキシム機関銃より軽量で、移動が楽であったそうですが
重量は20キロ以上あったそうで、軽量と言っても移動には大変だったそうです。
日本陸軍が防護板などで防備しながら、機関銃で支援射撃をしながら
前進していると、山の上からロシア軍が大砲で射撃してきて、撃退され、
多くの戦死者が発生し、日本側の大敗北となって行ったのです。
これらの戦況から、日本陸軍は大きな衝撃を受けることになっていったのです。
【 明日に続く。】