第2210回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2209話  旅順要塞 日本海軍 陸戦重砲隊のこと。


                     2018年9月1日土曜日の投稿です。




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【  前話の続きより。】



   旅順要塞の戦いで、日本陸軍善通寺の第11師団、金沢の第9師団、東京

 の第1師団、 旭川の第7師団の使用していた火砲が旅順要塞に対して威力が

 ほとんどなかったと言い伝えられていて、 日本陸軍が 海軍に応援を頼んで、

 海軍の要塞地帯に配備されていた沿岸砲台を分解して現地で再度組み立てて

 配置していったのです。



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   随分と大きな大砲で、動かすだけでも それはそれは大変そうな品物でした。




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     上の地図の碇のマークの場所が 陸戦重砲隊の 布陣していた場所で


     ちょうど、東京第1師団の後から砲撃していったとされています。



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   この海軍陸戦重砲隊の大砲の威力は凄まじく、命中精度が多少悪かった

   そうですが、 確実に相手のロシア軍のベトン陣地に被害をあたえていった

   とされています。


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  【 日本海軍のイギリス製の艦砲より、ロシアの沿岸砲台が射程が長かった。 】



  上の図のように日本海軍の艦艇が旅順要塞に近づいて艦砲射撃を

 行おうとすると近づけなかったというのは、 水中に機雷が敷設されていて

 夜間などは、危険でなかなか接近が難しかったそうです。

 


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  そして 日本海軍のイギリス製の艦載砲より、ロシア側の沿岸砲台の射程が

すこし長かったとされています。

 このような事から、 日本海軍の陸戦重砲隊の戦果や、 ロシアの旅順沿岸砲台

の戦果から、日本海軍では 大口径、 長距離射程の大きな大砲を持っている方が

戦を有利に出来ると言う 神話が作られていったようです。


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   203高地という名前が有名ですが、どうしてその場所を多くの戦死者を

 積み重ねて占拠する必要があったのか調べて見ると、 その場所から旅順

 の湾内を観測できたからというのが理由のようです。


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    203高地の山の上から観測して、 海軍の陸戦重砲隊の戦果を観察して

  修正情報を連絡して、 旅順港内のロシア太平洋艦隊の艦船を攻撃していった

  そうです。


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    こうして 日本海軍と日本陸軍を悩ましていた ロシア太平洋艦隊は

    旅順の港に逃げ込んでいたのですが、 停泊したまま、 日本海軍の

    陸戦重砲隊の砲撃で大破し、行動不能になって行ったとされています。



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   すべては、補給ルートの 対馬海峡を防衛する為であったのです。

   ここの制海権を失うと、朝鮮半島の陸軍部隊への補給が出来なくなり、結果

   日本側が負けてしまうことになって行くからでした。

   豊臣秀吉の文禄、慶長の役が失敗したのは、 対馬海峡制海権を確保

   出来なかったので うまくいかなかったそうです。

   日露戦争も、日清戦争も この対馬海峡制海権が維持できたので勝利できた

   とされています。


   【 明日に続く。】