第2211回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2210回 海軍兵学校 第52期少尉候補生 旅順上陸のこと。


                      2018年9月2日日曜日の投稿です。




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    関東大震災のあった翌年の大正13年8月、 私達 日本海軍 海軍兵学校

  第52期の少尉候補生を乗せた浅間、出雲、八雲の3隻の日本海軍 練習艦

  は当時の日本の領土であった 遼東半島 大連から旅順に転進し、旅順港

  入港することになって行ったのです。



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  入港のラッパが鳴り響く中、当時の私はわくわくしていたのです。

当時の明治後半に生まれた私達は、以前紹介したように、月刊 乃木式 とか

乃木将軍の美談をいろんな本で読んだり、学校で教育されたりして、旅順とは

どんなところか、ぜひ 1度は訪れて見たい場所であったのです。

ところが 戦後、考えて見ると 「天皇陛下に命や家庭を捨てて忠義を尽くさなけれ

ばならない。」 と言う 封建主義のお話しばかりで戦後の物差しで測りますと

問題のある内容の本も多かったように思います。



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  しかしながら、当時 そのような事を人前で発言すると、「 非国民。」と

呼ばれて 周囲から阻害されていく時代であったのです。

戦後の今風に言えば、泥棒をして警察に捕まると、 周囲から白い目で見られて

人々が遠くに行ってしまいますが、 当時は そんな感じであったと思います。




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   私達の卒業アルバムのような写真帳 海軍兵学校 第52期練習艦隊写真帳

 には、旅順の紹介はわずか1ページですが、当時の日本人が必ず訪れるというか

 行きたい場所の1つで、 今現在で言えば 奈良県の大仏とか、京都の金閣寺

 銀閣寺のような観光地であったのです。



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                         【 水師営会見所 】



   この写真帳の 水師営会見所 と言う場所は、 明治38年 1905年1月15日

に 冬の寒い中、 私があこがれていた 乃木 希典 陸軍大将にロシア軍が降伏

した場所であったのです。

この建物、 現在も残っていて、中国共産党が管理しているそうですが、私達は

「 ほうーー、ここが露助が降伏した場所かいなーーぁ。」と、 愉快な気分で

訪れたのを記憶しています。



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                          南霊山記念塔


   南霊山という場所に転進して、慰霊塔の前で整列して 敬礼し、戦死された

  
  人達に心を込めて、「 これからは自分がみなさんの替わりに 国を守って行き

  ます。」と、思いを込めて敬礼したのです。



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  この写真は、当時、旅順の旧市街で馬車、 つまり当時のタクシーのような

  感じの乗り物でした。

  当時、ガソリン車は高価で市中を走っていたのですが、 江田島のお話しで

  紹介したのですが 2台程度、 乗れるのは 高松宮殿下と兵学校の校長先生

  程度であったお話しを紹介したのですが、よほどの人でないと乗れる時代では

  なかったのです。

  戦後の現在で例えると、2000万円、3000万円出して、イタリア製の高級外車

  に乗ると言えば わかりやすいかと思います。



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                    【 旅順港閉塞隊記念碑 】



    上の写真の 旅順港閉塞隊記念碑と言うのは、例の広瀬海軍中佐の

   お話しに出て来る、 旅順軍港の入り口に夜間、ボロ船を沈めて ロシア

   海軍の艦艇が通れないようにしようという作戦で戦死された人を慰霊する


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   慰霊碑で、 昼間は ロシアの沿岸砲台の一斉射撃を受けるので近づけない

   ので、夜中に挺進し、 船を爆破して沈める作戦で多くの人が戦死されたの

   です。



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   私達は 規律正しく行進しながら 戦跡を訪問し、現地を見学しながら

   当時の作戦内容などの説明を上官から教えていただいて見て回った

   のです。

   子供の頃からあこがれていた軍国少年が目的を達成した1日であった

   のです。


    【 明日に続く。】