第2216回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】

第2215話 義和拳法の誕生の由来のこと。2018年9月7日金曜日の投稿です。






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【 前話の続きより。】



  1898年 明治31年 ドイツ人のキリスト教の牧師が布教のために清国を訪れ、

清国人の白蓮教の教徒に2名も殺害され、教会が破壊されたとドイツ帝国が発表

を行い、 軍勢を展開して重要拠点を占拠すると、国際世論も同情し、ドイツ支持を

各国が表明し、清帝国はどんと゜ん譲歩を余儀なくされ、多額の損害賠償金の支払

いを約束させられ、ドイツは清国の炭鉱の採掘権や、鉄道の建設権などを認めさせ

て、どんどん植民地の確立に邁進していったのです。



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   これらの出来事を聞いた当時の白蓮教徒や、周辺の住民は多いに不満を募ら

 せて山東半島以外の北京周辺の住民なども加わって一揆のような騒動を起こして

 いき 外国人を排斥するようになって行ったとされています。

 日本でも幕末、尊皇攘夷運動【 そんのうじょういうんどう】と言う思想や運動が

 広がりをみせて 多くの外国人が日本人の過激な攘夷派に襲われる事件が

 続いて行ったのですが、それに近い出来事が広範囲に発生していったとされて

 います。


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   白蓮教の当時の指導者や、その配下の大刀会の人達は、 自分達は大刀

  拳法ではなく、義和拳法であると主張し、 つまり 自分達の国を守る義挙

  であると申し立てて、義和拳法と名乗っていったそうです。

  これらの愛国主義一揆山東半島を中心にその周囲の省に火が燃え広がる

  ように広がって行き 多くの外国人が何もしていないのに 住民に捕まって

  襲われる事態となっていったのです。



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  北京の各国の公使館は、治安秩序の安定と外国人の保護を求めて 清国

 政府に強く要求していったのです。



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 清国政府側も、これ以上西洋諸国から 西洋人が殺害されたと称して、損害

 賠償を請求されてはたまらないと考えたのか、早急な善処を約束し、 軍勢を

 派遣して義和拳の関係者を捕縛し、見せしめの処刑を行って武力と見せしめ

 の処刑によって混乱の沈静化を行おうとしたそうですが、かえってそういう行為

 が火に油を注ぐ形となり 騒動が広がって行ったと言い伝えられています。  



【 明日に続く。】