第2219回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2218話 義和団事件 扶清滅洋のこと。


                     2018年9月11日火曜日の投稿です。 




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  扶清滅洋 という意味は、「 ふしんめつよう。」と読んで、「清を助けて支え

  西洋を滅する。」と言う意味があるそうです。

  日本で例えると、幕末の尊皇攘夷運動によく似ています。

  幕末に日本でも、「 攘夷。」【じょうい】と叫んで、愛国主義者が西洋人を

  襲撃していった事件とよくにています。

  この義和団事件という事件がなければ、清帝国はそのまま続いていたかも

  しれませんが、 当時の言い伝えでは、いろんな村の一揆が、どんどん拡大

  して その勢力は20万人以上に達し、 バラバラの寄せ集まりで、誰が

  統帥しているのかわからない程度、いろんな地域から皇帝に直訴しようと

  北京に義和団と総称される地方の一般人などが押しよせてきたと言われて

  います。

  ここが、日本と違うところです。

  日本の場合は、浪士【ろうし】 と呼ばれる武士が西洋人を襲っていった。

  清国の場合は庶民、農民などの一般の人が大勢で一揆を起こしていった。

  そして、それらの一揆が、どんどん通り道の村々の人達を加えていった訳

  です。



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  見方を変えれば、清国で争乱が発生していったと表現した方がよいかもしれま

 せん。

 20万人というと、わかりやすく表現すると、慶長15年 1600年の関ヶ原

 合戦の時の軍勢が、東西両軍で15万人程度とされていますから、それより

 多くて、 尚且つ、 徳川家康や、石田三成や、宇喜多秀家などの武将が

 存在せず、 いろんな地域の一揆勢がどっと北京に押しよせて来たと言う

 表現がわかりやすいと思います。

 それ故、指揮、命令系統がバラパラであったとされています。
 


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  あまりにも数が多すぎて、清国の軍勢も立ちふさがることが出来なかった

  そうです。

  そして中には、清国の軍勢の中から、 義和団に鞍替えするしたたかな

  人達もいたそうです。


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   当時のドイツ帝国は、イギリスやフランスに遅れをとって植民地が少なかった

 ので、これを急いで優位に立ち逆転するには、清国を滅ぼして、自分達の植民地

 にする方法が手っ取り早くてよいと考えていたとされています。

 そうするにはどうしたらよいのかドイツ人は考えたようです。

 義和団の人達を刺激して、さらに混乱を起こしていき、清国を揺さぶって、どんどん

 争乱を煽動して行ったそうです。

 こうして、ドイツの工作機関による さらなる義和団を刺激するような事件が

 引き起こされていくのです。


   【 明日に続く。】