第2226回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2225話 北清事変 第1次連合軍の内紛のこと。
2018年9月18日火曜日の投稿です。
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【 前話の続きより。】
1900年 明治33年の7月、 廊坊 と言う 現在の北京と天津の間の都市で、
西洋諸国の連合軍 約2千の兵力と、 数万人と推測される 義和団と清国政府の
正規軍武衛軍とが対峙したと伝えられています。
いて練度の高い軍隊であったと言い伝えがあります。
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天津の各国の領事館の護衛の兵士、 イギリス海軍の陸戦隊で構成された
第1次連合軍と呼ばれた軍隊は、 部隊と部隊が言葉が違い、武器、弾薬も
違うというそういう問題を抱えていて、いざ、戦う相手が大部隊であるとわかると
ドイツやイタリーや、オーストリーやいろんな諸国の部隊が、天津への撤退を
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特に フランスの部隊からは、一度天津に撤退し、ここで、援軍を待って、
兵力を整えて それから相手と戦うのが作戦の定理であると要求があった
そうです。
されていて、一刻も早く駆けつけて、救助しないと 食糧などの問題もあり、
このまま進撃するべきである。」との、意見であったとされていますが、
他の国々は、この意見に賛同せず、「 前に進むのであれば、イギリス海軍
だけで進めばよい。」と、 こんな 内輪もめになって行ったとされています。
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このような経緯で、廊坊という都市から、西洋連合軍は天津に向かって、
撤退することになって行ったとされています。
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こうして、大きな戦闘をすることなく、 義和団の兵士や、清国の武衛軍は
廊坊の都市に入り、 北京に対して、「大勝利、西洋人は逃げ出した。」と
報告の早馬を出したそうです。
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【 直隷総督 裕禄 】
向かわせて、北京から追い払い、 西洋諸国を追い払う事を西太后に進言
したとされる 直隷総督 裕禄 の元にも報告され、 彼はもくろみ通り事が
進んで、大喜びしていたと言い伝えがあります。
【 明日に続く。】