第2227回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2226話 北清事変 直隷総督 裕禄の奸計のこと。
2018年9月19日水曜日の投稿です。
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【 前話の続きより。】
北京と天津の間にある廊坊という都市を イギリス海軍主体の第1次西洋
連合軍と呼ばれる寄せ集めの軍隊が撤退を決断して天津に向けて退却していた
当時、 清国の中の 甘軍と呼ばれる西域の人種を主体とした軍勢が当時あって
それを率いていた 董福祥 という将軍が廊坊に入城したとあります。
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【 甘軍 董福祥 将軍 】
この軍勢、 西洋人に協力したりした市民を捕らえて、公開処刑するなど
ずいぶん非道を重ねる 軍勢であったと伝えられています。
当時の言い伝えでは、この 董福祥 将軍の甘軍の軍勢が北京のドイツ公使
や日本公使館の書記官らをなぶり殺しにしたと伝えられていて、後に西洋人に
目の敵にされることになって行ったそうです。
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そんな 董福祥 将軍の軍勢が 廊坊に入城した知らせを 直隷総督の
行ったそうです。
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「 西太后様、西洋人は臆病風に吹かれて 逃走致しました。」と、報告すると
西太后は、「 あらっ だらしがない。」 と言う顔つきになり、「 裕禄、 西洋人を
捕らえて 縄で縛って 連れてきなさい。」 と、命令したと言われています。
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【 直隷総督 裕禄 】
当時、彼はニコニコしながら戦勝を報告したつもりだったようです。
「外国人を縄で縛って 捕らえて来なさい。」と言う西太后の命令を実行でき
ないと当時、自らの処刑を意味していたのです。
行おうと考えていたようですが、 裕禄 と言う人は この命令が元で、
完遂が出来ずに、死に至ることになって行ったのです。
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義和団の軍勢や、甘軍や、武衛軍などの軍勢は、相手に退却の猶予を
与えず、沿岸部まで制圧しておけば良かったのですが、当時、何故かそこまで
行わなかった様です。
相手に 撤退の猶予期間を与えたことは、後に大きな災いになって行ったそう
です。
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そして、1日も早く北京の包囲された公使館の外交官達を救出することが求めら
れていた当時、 情勢が急変したとは言え、 退却した 第1次連合軍には、国際
社会から失望と非難が浴びせられていったのです。
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装備はバラバラ、 言葉も通じない 寄せ集めの海軍将兵や、領事館の
警護兵の寄せ集めの2千人と、数万の清国精鋭軍が正面からぶつかっていたら
どうなっていたか、 撤退は 正しい判断だったと思われますが、当時はそうでは
なかったようです。
【 明日に続く。】