第2228回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2227話 北清事変 内閣総理大臣 山縣有朋公の決断のこと。


                         2018年9月20日木曜日の投稿です。






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   【 前話の続きより。】





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  1900年 明治33年の7月、 第1次連合軍と呼ばれる イギリス海軍他の

領事館の警備兵などの寄せ集めの軍隊は 天津に撤退を決定し、 それぞれの

領事館の周辺にバリケードなどを設置して、防御陣地の設営を行っていた当時、

大日本帝国の首都 東京では、北京で 争乱が発生し、北京のドイツ公使や、

 日本の北京公使館の書記官が殺害されたという報告に基づいて、内閣で

対応が協議されたとされています。






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          【 当時の内閣総理大臣 山縣 有朋 公  山口県出身 】



  「 おかしな ことになったもんじゃのぅーー。」 と、 考え込んでいた当時の

 内閣総理大臣 山縣 有朋 公は、 日清戦争の時は、さかんに天津を押さえて

 北京に進軍することを強く主張していたのですが、 この北清事変の当時は、

 非常に慎重な姿勢であったと言い伝えられています。

  つまり、「 西洋人に肩入れして、 日本は何の得があるのかーー。」と

 考えた時に、「何も無いではないか。」と、 こうなったようです。

 
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   西洋人を清国人が追い払えば、日本にとって 非常にもっけの幸いで

 少し様子を見ようとこうなっていったようですが、問題は、北京公使館の外務省

 の職員が他の外国の公使館の職員と一緒に包囲され、救助を求めて来ていて

 これをどうするのかということになっていったそうです。




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            【 当時の海軍大臣 山本 権兵衛 海軍大将 】



   当時の閣議で、日本人商民保護の観点から 海軍の艦艇を天津沖に

 展開してはどうかと、山本権兵衛 海軍大臣から意見具申があり、早速、

 決定されて、海軍の艦艇を急派することになっていったとされています。




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      【 北清事変の当時 一番乗りで現地に向かった 巡洋艦 須磨 】



   当時、台湾の北 澎湖島諸島の馬公に停泊していた 巡洋艦 須磨に

 対して、「天津沖に転進せよ。」と命令が発令され、 日本海軍 巡洋艦 須磨

 は、急いで 天津へ向かうことになって行ったとされています。



   【  明日に続く。 】