第2233回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】
第2232話 北清事変 日本海軍の避難民の受け入れのこと。
2018年9月26日水曜日の投稿です。
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【 前話の続きより。】
1900年 明治33年の7月の当時、北京方面から 清国の軍勢や、義和団の
一団が押しよせてくるという話が天津の町中の人達に伝わると、大量の避難民
が発生したとされています。
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西洋諸国の各国領事館は、 清国人が逃げ出すのはこれ幸いと考えていたよう
です。
各国領事館では、 清国人はみんな 義和団に見え、疑っていたようです。
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の各国領事館の婦女子などを近くにそのままにしておくと 戦闘に巻き込まれると
思い至り、 護衛の小隊をつけて、 日本海軍の島村 速雄 海軍大佐に保護を
求めたとされています。
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【 巡洋艦 須磨 艦長 島村 速雄 海軍大佐 】
島村 速雄 海軍大佐も 人道上の問題として、これを承諾し、これを受け入
れたとされています。
このような出来事で、彼は いろんな国の領事館の領事や家族、職員から
大変感謝をされ西洋諸国から評価を受ける事になっていったのです。
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ところで、 よく映画でこの天津での西洋諸国と清国の軍勢の戦いが描かれ、
西洋人が小銃を構える隊列に、 清国の槍を持った 騎馬隊が突撃して全滅
するような姿が撮影されていますが、事実に反するようです。
清国側も そのような事もあったのでしょうが、 実際はもっと違っていたとされ
ています。
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清国 武衛軍の主力が 正面に陣を張り、 側面に 甘軍 と呼ばれる西域
の人種を主体とした、言葉の伝わりにくい軍勢が布陣し、さらに反対側の
側面には 義和団の軍勢が布陣していたとされています。
その数 数万とされていますが、 それぞれが別の指揮系統で、義和団の
軍勢に至っては統率がよく取れていなかったとされています。
【 明日に続く。】