第2236回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2235回 北清事変 ロシア軍の攻撃のこと。
2018年9月29日土曜日の投稿です。
【 天津付近で戦死した 武衛軍 聶 士成 将軍 】
【 前話の続きより。】
1900年 明治33年の7月9日 天津付近の戦闘で戦死したとされている
清帝国 武衛軍 聶 士成 【 じょう しせい】将軍の死は、直隷 総督 裕 禄
に報告されたそうですが、 彼は、激怒して、「全軍で総攻撃し、生きて帰るな。」
と厳しく命令し、北京の西太后に報告はしなかったとされています。
【 直隷総督 裕 禄 】
当時の最新鋭の西洋装備の武衛軍が天津で敗退し、聶 士成将軍が戦死
そのような訳で、 当時の言い伝えによると、 西太后には、「武衛軍は各地
で西洋人を撃破し、天津に進撃中。」 とのウソの報告を行ったとされて
います。
ちょうどその頃、 ロシア軍が、清帝国を裏切って、攻め寄せたと言い伝えが
あります。
などを建設して良好な関係が続いていて、攻めてくる事は無いと考えていたそう
です。
ところが、 ロシア側は、清国が西洋諸国との戦争を開始したと知って
背後から 不意打ちをかけてきたそうです。
の旅順要塞は清国を攻略する前線基地となって行ったのです。
ロシア軍は、北京へ、北京へと、進軍を開始し、 当時、 事実上 ロシア帝国の
支持する発表をしたとされています。
【 当時 恐怖政治を行っていた 西太后 】
との報告に、 西太后は、「 すぐ、裕禄に命じて、 ロシア兵を追い払いなさい。」
と命令し、 直隷省の総督であった 裕禄は、 2方面の敵と戦う事になっていった
とされています。
直隷総督 裕禄 は、 西洋諸国の領事館などの警備兵が立て籠もる天津を
そのまま放置して、 軍勢を ロシア軍迎撃に向かわせたそうです。
天津は 放置していても、北京に攻めては来ないだろうと考えたそうです。
【 当時の内閣総理大臣 山縣 有朋 公 】
当時、 これらの大陸の動きを聞いた 大日本帝国の山縣 有朋 公は、
顔色を変えたそうです。
このまま、 様子見に終始しているとその先どうなるのか 考え込んでいた
そうです。
【 明日に続く。】