第2259回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2258話 北清事変 宦官 崔 玉貴のこと。
2018年10月23日火曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
1900年 明治33年の夏の暑い8月14日、北京を放棄して 西洋連合国
出発したとされています。
西太后は、「 みな とまりなさい。」 と叫ぶと、「 玉貴をこれへ。」と手招き
し、宦官 崔 玉貴を輿の近くに呼びつけたそうです。
そして、 「 急いで珍妃を井戸に沈めて始末しなさい。」 「 急ぎなさい。」と
囁いたとされています。
数年前、皇帝 光緒帝の側室の1人であった 珍妃は、西太后を追い落とそう
としたという疑いを西太后からかけられて、彼女に幽閉されていたとされています。
北京から 西太后が逃走した後に、珍妃が西洋諸国連合軍と結んで危害を加える
ことを恐れた西太后は、後々の禍根を断つべきと判断し、 珍妃の殺害を命じたの
です。
その謀叛の疑いというのは、彼女が 皇帝の光緒帝に 「自分で政治を行われ
ては。」と、寝間で皇帝に話しかけたとか、 いろんな諸説があって、はっきりして
いないそうですが、当時24才であった彼女が幽閉されていたというのは事実の
ようです。
【 殺害を主導したとされる 宦官 崔 玉貴 】
西太后から命令を受けた 宦官 崔 玉貴は、「 かしこまりました。」と
回答し、そのまま 警護の兵を連れて 珍妃が幽閉されていた冷宮という
場所に向かったそうです。
その殺害の現場となったとされる井戸が今も残されています。
この井戸、 1980年初頭から 上の様な画像の場所に共産党によって整備され
観光名所の1つとなっています。
言い伝えによると、西太后からの命令を受けた 宦官 崔 玉貴 ら一団が、
珍妃を取り押さえて、 この井戸の穴に 彼女を落として殺害したとされています。
現在 そういう観光ガイドの説明の後に、 この井戸の穴をのぞくことが観光客
のお決まりの行動パターンになっているようです。
訪問した当時、私ものぞいて見たのですが、おそらく殺害された後に、遺体を
投げ込まれたのではないかと思います。
西太后という人は、自分と対立したり、おかしな言動をしたと、 人に疑いを
かけて次々殺害していったとされていて、 珍妃という人も その1人であった
とされています。
本当にそうなのか、 どうだったのかという事については、当時、西太后は
一目散に紫禁城を逃亡し、 どうなっていったのかは、誰も知らないようです。
語られているのは、言い伝えと、推測話しのみにて、紫禁城は統治を失って
多くの混乱が発生していった様です。
いろんな恐ろしい方法による見せしめの処刑によって、周囲に恐怖を与え、
その恐怖によって、政治を行い、国を独裁政治で統治していく、そういう時代が
終わりを告げ、 国家がバラバラに分裂していった始まりのような年が1900年
であったようです。
【 明日に続く。】