第2262回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2261話 北清事変 北京での市街戦のこと。 

                            2018年10月26日金曜日の投稿です。





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【 前話の続きより。】




   1900年8月の中旬、 気温が40度近くに達する北京周辺では、続々と

 広島歩兵第五師団の兵力が展開し、北京の市街地に向かって 砲撃を開始

 したのです。



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  当時の記録によると 砲撃で民家などの義和団が隠れている場所と思われる

  地域を無差別砲撃して、その地域を破壊した後に歩兵が前進を行って行った

  そうです。




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   つまり どう言うことかというと、 その地域に住んでいる人達は皆殺し

  の対象となっていったようです。


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 こうして 義和団や一般人が無差別に処刑されていき、義和団のメンバー

も一般人の格好で逃走していき、 清国古来の武器を使用して戦おうとしていた

数万の義和団とその周辺の武装組織はもろくもぐずれ去っていったそうです。
 




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  これらの戦闘の戦訓は、広い平原が多い支那大陸の北京周辺では、射程外

 から圧倒的な火力支援を受けながら前進を進める日本陸軍や、当時の最新兵器

 のマキシム機関銃を装備するイギリスの植民地軍に対して、19世紀の古来から

 の武器、 刀や槍や弓矢での戦闘行為は、仮に10倍の兵力を擁していても

 
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   勝ち目がないとの結果に終わっていったのです。


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   当時、これらの戦闘に参加していた各国は、 マキシム水冷式機関銃の性能に

 多いに注目することになって行き、ロシア帝国は マキシム機関銃を大金を積んで

 輸入し、装備していくことになり、 日本はフランスのホッチキス機関銃を輸入して

 装備していくことになってったのです。

 つまり、 日本の兵器は フランス製がその元祖であったのです。



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   こうして、 清国人の兵器の届く射程外から 一方的に砲撃され、清国人は

  勇ましい人も多かったそうですが、 そう言う人から殺害されていく結果となり、

  後の方にいた人たちは、どっと 戦わずに逃走していき、 戦いは連合軍の

  一方的な勝利に終わったそうです。



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    こうして 北京はあっという間に陥落して、町の中は廃虚となり、多くの

  人が亡くなり連合軍に占領されることになって行ったとされています。


   【 明日に続く。】