第2263回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2262話 北清事変 柴 五郎 陸軍中佐のこと。


                         2018年10月27日土曜日の投稿です。





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    【 前話の続きより。】


   1900年 明治33年8月14日 広島歩兵第五師団 隷下の 福山歩兵

  第四十一連隊が向かったのは、北京の紫禁城の東南の外国人公使館の

  立ち並ぶ一帯であったそうです。

  ここに、当時の記録によると 外国人 925名と、支那人キリスト教徒が

  約3千人、警備兵 481名 合計 約4500人が、清国の軍勢や、義和団

  包囲されていたとされています。




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    当時のお話しでは、1900年6月19日から 8月14日までの約2ヶ月間

   包囲の中、籠城していたそうです。


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            【 北京駐在イギリス公使 クロード マグドナルド ナイト 】




    その指揮をとっていたのは、当時のイギリス公使 クロード マグドナルド

  という外交官であったそうです。

  この人は現在知る人は少ないですが、その後、駐日公使となり、日本の競馬の

  天皇賞の元祖を作った人としても知られており、株式投資粉飾決算を指摘して、

  公認会計士の制度を唱えた人としても知られています。


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  【 清国軍に殺害された ドイツ公使館 クレメンス フォン ケーテラー公使】



  ドイツ公使が公使館を攻められ 殺害された後、 各国公使館は協力して

  籠城を行っていたそうです。


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            【  北京日本公使館 駐在武官 柴 五郎 陸軍中佐 】



   当時、北京日本公使館の駐在武官であった 柴 五郎 陸軍中佐は

  英語、フランス語、支那語が話せることから、その防衛の実務の中心人物

  となり、 多いに活躍したと言い伝えがあります。

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   こうして 西太后らが逃走して、日本陸軍や各国の軍隊が北京を武力征伐

 して、清国の軍隊や、義和団の兵力を討伐して、包囲されていた外国公使館

 を開放したそうです。

  水は井戸があったのでしょうが、4500人近い人達の2ヶ月分の食糧など

  どうやってやりくりしていたのか、 いろんな部分が謎となっています。



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   当時、 この北清事変と呼ばれる戦乱で 天津から北京までの町や村が

  破壊され、多くの人が戦争に巻き込まれ、死傷したとされていますが、当時の

  世界からは、清国が悪者にされていた事も有り、 見向きもされなかったそうです。

  そして時の流れが急速に速まり、いろんな出来事が同時進行していったそうです。


  【 明日に続く。】