第2266回 昭和の伝道師 【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2265話 北清事変の戦訓のこと。 2018年10月30日火曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
北清事変の戦訓というのは 多くあるのですが、日本陸軍が驚いた事、
印象に残ったことと言うのは、まずイギリス式の補給方法であったそうです。
が主力で、細い山道を伝って補給していたのですが、イギリスという国は鉄道を
使用したわけです。
これが 早くて 便利がよいことに見ていて気がついたわけです。
「 線路を中心として 兵力を進めていく。」 これは、日露戦争で模倣されて
いった戦術です。
それから 数丁の マキシム機関銃を見て、 さらに驚いたそうです。
早速、機関銃を装備することが進められていったそうです。
戦後の小説や映画で 日露戦争の当時、日本に機関銃が装備されてい
なかったと言うのは間違いの誤表現です。
ロシアは それをそのまま マキシム機関銃を大金を積んで購入し、装備
していったのです。
この機関銃、 必ず 水冷式のため水を必要とし、 重量が重たかった、
反面 ベルト給弾式で長時間の射撃が可能であった。
日本陸軍は、水がない場所でも使える空冷式を選んだわけです。
反面 クリップ板式と言って、 30発程度射撃すると、次弾装填が必要で
あったようです。
そして、銃身の加熱を押さえるため発射速度が遅かったのです。
キツツキのような 発射音であったのは、 銃身の焼き付けを防ぐ為に
発射速度が わざと遅く設定されていたそうです。
それから、ドイツ軍は レントゲン写真車という新兵器を持ち込んだそうです。
医療兵器で、 前線の救護所でレントゲン写真を撮影して、 どこに弾丸が
入っているとか、 破片があるとか、 骨折しているとか、検査していたそう
です。
これを見て日本陸軍では多いに驚いたそうです。
それから機関砲の元祖が登場したのも この北清事変の前後だそうです。
口径は30ミリ機関砲だったそうです。
マキシム機関銃の拡大型であったそうですが、 それが命中すると、馬は
一撃でひっくり返ったそうです。
それが 連射するわけで、 攻める方は近づけなかったようです。
当時の機関銃というのは、防御兵器だったようです。
陣地にすえて敵の攻撃を食い止める、 そういう兵器だったようです。
ガソリン車が発明されると、 この防御兵器を応用して登載し、攻撃兵器
に変化して行ったのは、わずか10年程度後だったそうです。
【 明日に続く。】