第2274回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語】

第2273話 鎮海 統制営 忠烈祠のこと。


                   2018年11月7日水曜日の投稿です。




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     【前話の続きより。】


  大正時代、 朝鮮人の人達を馬鹿にした発言をしたり、軽く扱ったり、そんな

行為が多発していったのは、 西洋人や日本人から見て、世間一般の常人が見て

思うに おかしな行為をしていた人達が 下層身分で非常に多かったのです。

服装にしても、なににしても 理解に苦しむ風習が当時は当たり前に行われ

ていたのです。


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現在の戦後の時代でわかりやすく例えて言うと、山手線で、乳房を全部露出して

電車に乗っていると、日本人にジロジロ見られて、 そのうち 「 こんな女。」と 

軽蔑されていくと言うとわかりやすいと思います。 

 反面、 貴族階級の身分の高い人は、教養があって立派な人も多かったのです。


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                      【  京城の 朝鮮総督府 】


  しかしながら大正時代は朝鮮半島は日本の国内で、おかしな服装で歩く人達

日本国籍で、皇族と呼ばれる人達以外は、 複数あった身分が廃止され平等

となり、公用語は日本語となり、 日本語で義務教育が行われ、 西洋人が見て

見下されないような 服装、身なりが求められていったのです。

 そして朝鮮半島文化財を東京や大阪などに持ち去るというか、日本国内の

帝国博物館に動かす行為が行われていったのです。

 日本人からすると、国内の文化財の移動だったのですが、朝鮮半島の人から

すると 持ち去りで反発があったそうです。




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   ところで 確か 鎮海に入港して数日後、私達、海軍兵学校 第五十二期の

 少尉候補生は、 浅間、出雲、八雲 と別れて整列させられ、「 足ふみ始め。」

 の号令で、一斉に動き出し、「 行進始め。」の号令で一斉にどこかに歩かされた

 のです。

 「 どこへ 行かされるんかいな。」 と思っていると、 延々と行進させられ、

 転進先は、 統制営忠烈祠 という場所であったのです。



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    8月のうだるような暑さの中、「 もうかんにんしてぇなー。」と言いたくなる

   ような酷暑の中、水も飲むことも許されず、 どこに行くのかと思うと朝鮮の

   神社のような場所であったのです。


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            【 大正13年8月の統営忠烈祠参拝状況写真 】


   漢字で 忠烈祠 と書いて、たしか当時、現地の言葉でチョンチュル

 と発音したと思いますが、 その言葉をしゃべると当時は使用禁止で罰金

 ものであったのです。

 その意味は、 「忠義の心で国難に打ち勝つこと。」であったのです。

 当時は、 朝鮮の歴史も、日本国内の歴史として扱われ、 朝鮮国王やその家族

 は日本の皇族同様の身分で保護され、無礼を行う事は 法律で厳しく禁止されて

 いたのです。

 そう言うわけで、大正時代の当時は、こういう朝鮮半島の寺社仏閣は保護されて

 いて、礼を尽くして参拝することが軍人の私達に求められていたのです。

 そして、これらの忠烈祠は、「 皇族や国家に忠義を尽くして 死になさい。」という

 封建教育に利用されていったのです。



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   当時、慶長の頃、 豊臣秀吉の軍勢を水軍で強襲攻撃して悩ませた、朝鮮の

 水軍の将軍 李 舜臣 【イッ スンシン】という武将が祭られていて、最後の最後

 に、薩摩の島津の水軍の一斉射撃の鉄砲玉に当たって戦死された経緯が紹介

 され、私達は整列して敬礼を行って敬意を表したのです。

 当時は、日本国内の大昔の合戦で活躍した武将という扱いで、朝鮮とか日本とか

 の区別はされていなかったのです。

 今風に言えば、楠木 正成 や 真田 幸村のような扱いであったと言えばわかり

 やすいと思います。


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  「 国家のために 命の危険を顧みず、 天皇陛下のために命を投げ出して

 世の中のために戦死する。

 戦場で最後の最後で 敵の弾に当たって戦死することは、軍人の本望である。」

 と、当時、訓示を受けた記憶があります。

 そういう教育をするために、国家によって美談が作られていき、利用され、

 多くの人が亡くなっていく原因の 独特の精神教育の事例として紹介され

 その後、観光名所のような場所になっていたのです。


  【 明日に続く。】