第2275回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年11月8日木曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
は、数日、当時日本国内であった朝鮮半島の南部の鎮海要港部という軍港で
船体の手入れや、簡単な修善などを行ったのち、碇を上げて出港する事になって
いったのです。
毎回のことですが、当時何も行き先について告げられることなく、どこに連れて
行かれるのか全く知らされなかったのです。
当時の鎮海という場所は 穏やかな夏の港で、私達は甲板に整列して
見送ったり、手を振ったり、 旗を振ったりしてくださる人達に、帽子をゆっくりと
ふってその行為に対して 礼を尽くしたのでした。
まったく 話しもしたこともなければ、 お会いしたこともない人達でしたが
旗を振ったり、 手を振っていただくと、嬉しいものです。
どうして 行き先が告知されないのかというと、 軍事機密が知れることを
防止する為でした。
例えば、港町で 末端の水兵が、行き先を誰かに漏らしたりしたとします。
そうすると、ほんのささいな事から 作戦が相手に知られてしまうことにつながって
いったのです。
そういう事情で、 将校と言えども、 上官に行き先を聞くことは タブーであった
のです。
そして その上官も 聞いたところで 行き先など知らない事がほとんどで
あったのです。
そういう事情で、 水兵達の間でも、「 次はどこに向かうのか。」 と言うお話し
を分隊の中程度でヒソヒソ話し程度を行う事は 見て 見ぬふりであったのですが
大ぴらに行き先についての会話をすることは当時禁止されていたのです。
しかし 当時の私達は おおよその事は予想していたのです。
それは、太陽の方向、 星の観察から、艦隊がどちらの方向に進んでいることは
わかっていたのです。
次の停泊地は、舞鶴であろうと 囁いていたのです。
しばらくしていると、 ずぅーーーーーーぅと 大きな艦が 上に持ち上がり
ずぅーーしーーんと 沈むのですが、 上にあがるときはそうでもないのですが
下に沈むとき、 胃袋に ぐぅーーっと 来るのです。
初めはそうでもなく、 面白おかしい世間話や、 乳房を出した朝鮮の女性の
お話しで盛り上がっていたのですが、 だんだんだんだん 気分が悪くなって
いく者が増えていきまして、それは それは 大変な事になっていったのです。
海底の深度が深い場所、 海溝などの上は 波が高いのです。
そうすると 前に進もうとしても 波が押し寄せると なかなか艦が前に進まず
上下して燃料が余分に発生する事になっていったのです。
そういうわけで、 航海は 極力潮の流れを良く把握して航路を設定することが
大切で、ただ目的地と目的地を直線で結んで航海するよりも、大回りの航路
の設定の方が 実は目的地に早く着くこともあったのです。
「 まずは自然を知る。」 と言う事は 当時大切な事であると知ったのです。
【 明日に続く。】