第2276回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第2275話 練習艦 八雲 分隊長附 甲藤 翠 海軍中尉のこと。



                         2018年11月9日金曜日の投稿です。



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【 前話の続きより。】


  1924年 大正13年の8月、 私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生

を乗せた 日本海練習艦隊 浅間、出雲、八雲の3隻は対馬の北を通過して

日本海に転進していったのですが、 上にあがって、 ずしぃーーんと下に下

がってを繰り返し、下がる時に胃に ずしーーんと来まして、だんだん 船酔いに

なっていった候補生が増えていったのです。



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  大正13年のその当時、八雲には、海軍兵学校の少尉候補生が私を入れて

 64名、 そして海軍機関学校の少尉候補生 26名と、海軍主計学校の少尉候

 補生 14名が一緒に乗艦して航海していたのです。

 以前紹介したように、 海軍では 卒業時の成績の番号が一生ついてまわる

 学歴社会で、卒業しても 艦内で生活する上で、成績の番号がよい人が何事も

 優先されまして、番号の桁の多い候補生は相撲の番付の後の人のように

 立場が弱かったのです。

 私は 64名の中で ちょうど真ん中程度であったのです。



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  当時 八雲の艦内で幅をきかせていたのが 鹿児島県人でありました。

 その理由が 当時の分隊長 鬼塚 武二 海軍大尉が鹿児島県の第二中学

 の出身で、 私達の兵学校 第五十二期の少尉候補生の1番の先任候補生が

 赤塚 栄一 こと、 後の 白濱 栄一候補生が鹿児島県の出身であったのです。

 ところで、分隊長附という役職があって、現在で言えば分隊長 代理とか補佐

 とかの役職で、 鬼塚 海軍大尉のそばに甲藤 翠 という海軍中尉がおられて

 彼が私達の近くに来て、「 候補生は全員整列。」 と、大声で号令したのです。

 私達は、整列し、赤塚 栄一 候補生が、「 番号点呼。」と叫ぶと、「 1、2、3

 4、5ーーーーーーーーー64。」 まで大声で叫び、ちょうど、赤塚候補生が、

 「 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生 総員64名、現在員6ーー。」と

 叫ぼうとしたその時、 末端の候補生の佐野 重士 候補生が ついに我慢で

 きなくなり、船酔いで嘔吐しそうになったのを必死に辛抱していたのが分隊長付

 に見つかってしまったのです。



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 甲藤 翠 と書いて、 翠 【みどり】と読む印象に残る人で海軍兵学校 第48期

 つまり、私達より4期先輩の海軍中尉でありましたが、 ことん ことん ことんと

 靴の音をたてて、近づくと、「 何事かーーーっ。」 と、一喝されまして、 周囲を

 見渡し、「日本海のような内海で眼が回るとはケツのネジが緩んでいる証拠で

 ある。」 と指導を受けたのを記憶しています。

 甲藤 翠 海軍中尉の指導というのは、次の様な事であったのです。

 何も行わず、ぼやっとして、一点を見ていると 艦が上下して 眼が回って

 気持ちが悪くなるわけです。

 そこで、「艦内で駆け足行軍を行ってみろ。」と言われたのです。 

 みなさんも自分が車の運転をしている時はそうでもないのですが、バスに乗

 ったり他の人が運転する車に乗ると 気分が悪くなる人がいらっしゃると思い

 ます。

 この原因は、眼が回って、水平感覚がおかしくなり、吐き気を催すわけです。

 そこで、自ら走ったり、 自らが 前を見て 艦を動かしていたら ずいぶん

 楽になるのです。



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  そんな指導がありまして、 これから太平洋に出て練習航海に向かう以前に、

日本海で船酔いになっていては どうするのかと、 一喝を受けたわけです。

私達は、 赤塚候補生の号令で、「 全員 駆け足よーーぃ。」 の号令で、

艦内を走り回ることになって行ったのです。

すると 不思議なもので、 揺れる艦内で走るのも大変でありましたが、

船酔いが 少し楽になっていったのです。

船酔い イクオール 眼が回る と言う事を知り、 その対処として、自らが

前を向いて 動くと それになりにくいという事を艦内で知っていったのです。

何か夢中になって 体を動かしていると、船酔いにはなりにくいのです。


 【 明日に続く。】