第2276回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第2275話 日本海海戦の戦死者を追悼するのこと。
2018年11月10日土曜日の投稿です。
【前話の続きより。】
1924年 大正13年の8月、私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生
は、練習艦 八雲の中で眠れぬ夜を過ごしていたのです。
水を飲むことも大きく制限され、というか、飲むことは禁止されていて、夏とは
言え日本海の波に艦が上下して、 それはそれは大変であったのです。
艦の中でも、涼しい場所、暑い場所、 暗い場所、 寒い場所、とても暑くて
どうしようもない場所というのがあって、 私達がいる場所は、蒸し暑くて仕方
のない場所で、 甲板に出て 涼しい場所で眠りたいところですが、団体行動
の集団生活で、勝手な行動は当時許されなかったのです。
しばらくして、 甲板整列を意味する ラッパ信号が発令されて、私達は急いで
甲板に上がり整列したのです。
行われた場所だそうで、 1905年 5月27日 28日にかけて行われた海戦
で 双方が5千人近い戦死者を出すことになったそうです。
記録によると 日本海軍は 約110名が戦死し、約580名が重軽傷
を負ったとされています。
ロシア海軍は、約4800名近くが戦死し、6千名近くが捕虜になったとされて
います。
捧げたのです。
当時の私達は、戦で大手柄を立てて、 東郷平八郎元帥のように有名に
なってみせると候補生全員が野心を持っていたのです。
なにしろ当時は、東郷平八郎元帥は、御元気で、生き神様のような扱いであった
のです。
当時は、結果がすべてで、 負けた人にはだれも同情せず、 勝利した者のみ
もてはやされ、大日本帝国は 勝つことはあっても、負けることは許されなかった
のです。
【 明日に続く。】