第2279回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2018年11月14日水曜日の投稿です。
1924年 大正13年8月 私達 海軍兵学校 第五十二期の少尉候補生
は、出雲大社の門前でわずかな自由時間を過ごす事になったのですが、1流の
お店に行くようにとか、暑いからと言って、上着を脱いだりしてはならないとか
細かな注意を受けた後に 門前に繰り出したのですが、1番にやったことと言う
のは水を飲む場所を捜したのです。
当時、練習艦 八雲の艦内では 真水は 一人一日3合までと決められていて、
3合の水で洗濯物も行わなければならず、ほとんど飲めない状態であったのです。
おまけに 8月のかんかん照りの暑さ、 日本海側というのは 夏は暑く
冬は大雪で寒いという場所で、私達は、「 水、水。」と飲み物を求めたのです。
そんなことをしているとあっという間に時間がたってしまい、また 娑婆の
生活から つらい艦内生活に戻っていったのです。
【大正13年撮影 八雲の短艇 】
出雲大社の西、 杵築 という場所からアンカーをあげて、出港する
ことになっていったのですが、 あっという間の出雲大社 参拝であったの
ですが、当時はずいぶん息抜きになったのです。
ところで 「 次はどこに連れて行かれるんかいな。」と思いつつも、そんな
ことを聞いたら制裁訓練ものでありまして、練習艦隊は杵築を出港
したのです 。
途中、見送りの漁船が日の丸の旗を振ってくれるのが見えると
私達は、お話しもしたことのない人達に、帽子をゆっくりと頭の上
で回してそれに答えたのです。
ところで島根県の 杵築という場所を出港しまして、私達の次の行き
当然、 行き先は語られ、告知されることなく、浅間、出雲、八雲の3隻は
日本海を静かに進んで行ったのです。
当時の写真を紹介しながら 舞鶴のお話しをしたいと思います。
【 明日に続く。】