第2281回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】
2018年11月16日金曜日の投稿です。
【 前話の続きより。】
と言う場所を訪問し、ほんの2時間程度、「 天の橋立とはーー。」と、見学に
現地を訪れたのです。
【 大正13年撮影 当時の 天の橋立 】
奈良県の葛城の出身の私にとって、 とても印象に残るきれいな場所で
波の音が とてもさわやかに聞こえたのを記憶しています。
ここで 幕営【 まくえい テントを張ってキャンプをすること】を行い、海水浴
でも行えば良さそうな、そんな場所でしたが、私達は早々に艦に戻り、次の目的地
の舞鶴要港部という軍港に転進したのです。
それは近くだったので あっという間に到着することになっていったのですが、
どのような場所か簡単に説明しますと、対共産党政権の最前線の基地であったの
です。
数話前に紹介した 北清事変で 清国が崩壊していったお話しを紹介したの
ですが、 1900年 明治33年の7月から8月にかけてのことでした。
当時の山縣 有朋 内閣は、ロシアが清国を乗っ取り、朝鮮半島を勢力下に
置いて、大日本帝国を攻撃してくるに違いないと危機感を持っていたのです。
翌年、 ロシア極東艦隊が日本海に進出してきた場合、それを迎え撃つ拠点
として舞鶴鎮守府が設立されたのです。
その舞鶴鎮守府が設立されたのは、北清事変の翌年の1901年 明治34年
10月1日でありました。
【初代 舞鶴鎮守府 司令長官 東郷 平八郎 海軍中将 】
として北支那 天津沖合に進出して活躍した、東郷 平八郎 海軍中将であった
そうです。
大正13年8月当時は、 ロシア帝国が崩壊し、 原 敬 内閣当時、シベリア
出兵を行い、大日本帝国が経済破綻し、そんな世相の頃でありました。
していたのです。
以前紹介した ニコラエフスク ラッ アムーレで発生した、通称、尼港事件
れた事件の影響で、 共産党に対して 非常に国民は危険視していたのです。
【 舞鶴要港部 庁舎 】
多くの人が、「おくにのために。」 などというセリフで解雇され、関東大震災が
発生した年の1923年 大正12年4月1日から、格下げされて 舞鶴要港部
という名称になっていたのです。
【 明日に続く。】